横浜応募作文 | 第1回ぐるっとママ懸賞作文

「私の出産」~母から子へ伝えたい言葉~

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みいるさん「有難いもの」

みいるさん「有難いもの」

『妊娠→出産まで、何一つ当たり前に進んだものは無く、全てが有難いもの。あなたがいる、それだけでとてもありがたい毎日です。』   みいちゃんは安産タイプだね。 初めて言われたのは小学校6年生の時だった。体が大きく、滅多に風邪も引かない健康優良児だった私。 その後39歳で妊娠するまでの間、何度も同じセリフを違う人から言われた。妊娠出産なんて当たり前に出来るものだと長い間思い込んでいた。 妊娠8週目を迎える頃、診察時に小さな黒い袋の様な影が二つ見えた。 「切迫流産の可能性があります。今日から家で絶対安静にして下さい。」 先生から予想外の診断を下され、頭の中は真っ白になった。 狼狽える私に、「子供の命がかかってるんだから!しっかりして、お母さん!」と先生は喝を入れた。 私にはお腹の子供の様子は分からない、見ることも出来ない。 でも、私はこの子のお母さんだ。出来ることは今すぐ家に帰り、只管寝ることしかないんだ。 4週間の絶対安静により、何とか切迫流産の危機を乗り越えることが出来た。 しかし、妊娠後期に突入するとすぐに切迫早産により再び寝たまま生活に突入することになった。 ただ、妊娠初期の寝たまま生活とは違い、お腹にはずっしりと子供の重みを感じ、勢いよく蹴る音や、謎の携帯バイブ着信の様なものがお腹に響いて大分賑やかなものになった。 私は妊婦期間の約3分の1を寝たまま過ごした。 母親学級に参加することも、妊婦雑誌に載っていた出産前にやりたいことリストも殆どしなかった。 しかし、そんな私でも人一倍したことは祈ることだった。 私は安産タイプと言われながらも、なかなか子供を授かることは出来なかった。 30代前半で結婚した当初、私は専門職として働き、終電帰りや休日出勤をこなす毎日。 体は丈夫な方だった為、子供はいつか出来るだろうと悠長に構えていた。 しかし、35歳を過ぎた頃から子供を望むなら今の生活を変えるべきだと夫と話し合い、私は転職し、不妊治療を始めることになった。 生活を変えたからといって必ず妊娠出来るわけではない。検査で私達夫婦は何も問題無いと判断されているのに、受精卵が育たない。 携帯ゲームと違って、いくら課金しても受精卵が強くなるわけではない。 そんな中、唯一育ってくれたのが、今の息子であった。 私にとって妊娠は奇跡だ。 もっと言ってしまえば、今私が生きていること自体が奇跡だ。 私は寝たままの姿勢で毎日祈り続けた。 今、私が生きていること、そしてお腹の中で子供が生きていることに感謝した。 「どうかこの子が無事に生まれて元気に、幸せに育ちますように。どうか私の奇跡も全てこの子に与えて下さい。お腹の子供に奇跡が起こり続けますように。」 私には祈ることしか出来なかった。 そして、私は元気に育った息子の姿を想像する。 そしてその想像はついには反抗期まで迎えてしまう。 そんなことを繰り返しながら、私はついに正産期を迎えることが出来た。 出産後、私は出血多量ですぐに処置が必要なった。 息子はすぐに保育器の中に入り、産後3日目にようやく息子を抱くことが出来た。 「よく頑張ったね。産まれてきてくれてありがとう。」 妊娠するまで、そして妊娠してからも何一つ当たり前に、順調に進んだものは無かった。 しかし息子はそんな中でも頑張って生まれて来てくれた。 本当にありがとう。 そして、これからもずっと、毎日あなたにありがとうと言わせてと願った。 あれから4年が経ち、私達は奇跡的に元気に過ごしている。 毎日寝顔に向かって「生まれてきてくれてありがとう」という瞬間、私はいつも世界一の幸せ者であることに気付く。 願わくば、息子にも私に負けないくらい幸せになって欲しい。 4歳になった息子はやんちゃ盛りだが、反抗期はまだ当分来ないようだ。 いつか反抗期が来て、息子が「誰が産んでくれなんて頼んだんだよ!」なんて言ったら、寝ながら想像したあの時を思い出してこう言おう。 「私があんたを産ませて下さいって毎日頼んだんだよ!」   東京都 みいるさん 題名:有難いもの 子どもへ伝えたい言葉:「妊娠→出産まで、何一つ当たり前に進んだものは無く、全てが有難いもの。あなたがいる、それだけでとてもありがたい毎日です。」

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Yumikoさん「最高の誕生日プレゼント」

Yumikoさん「最高の誕生日プレゼント」

『どこにいても何をしていても、ママもパパもあなたのことが大好き。』   予定日は2021年の4月後半。 まだ1ヶ月も先の事だし、明日もお散歩でもしてゆっくり過ごそう。そう思って眠りについた夜、腰が猛烈に痛くて深夜に何度も目を覚ました。 立ち上がれないくらいの痛みが定期的にくるので、これはおかしい・・と思い痛みの間隔を測ってみると15分間隔。おしるしなのか、出血もあった。 もしかしてこれは陣痛かも?と思い、早朝に病院に電話をした。 「すぐに来てください!!」と言われ、急いで車で病院へ。 検査をしてもらうと子宮口がかなり開いていて、切迫早産で緊急入院になるとのこと。 心の準備も入院グッズも準備は出来ていない・・。そんな状態での入院生活が始まった。 コロナ禍で病室には家族ですら入れない。パパは駐在でシンガポールにいて日本との行き来は出来ない状況。 もうすぐキミに会える嬉しい気持ちと、少しでもお腹の中で長く過ごさせてあげなきゃいけないっていう不安な気持ち、パパにいつ会えるのか分からなくて寂しい気持ち。 寝たきり生活で体も痛くて、辛くて辛くて毎日涙がとまらなかった。 ママが泣いている時、お腹を触るといつも可愛いキックで返してくれていたよね。 「ママ頑張れ!ボクがいるから大丈夫だよ〜」ってお腹の中からエールを送ってくれてありがとう。 緊急入院になってから1週間経った日の深夜0時。 突然息が出来なくなるくらい体中が痛くなって、ナースコールを何度何度も押した。子宮口は既に全開。すぐに分娩室に運ばれて、あれよあれよとお産の準備が進む。 陣痛の波が和らいだタイミングで、優しい助産師さんが「旦那さんやご家族にビデオ電話繋いでいても大丈夫ですからね〜」と言ってくれて、一応電話をかけてみる。予定日より1ヶ月も前の突然のお産。深夜1時、夫も父も母も弟ももちろん電話には出ない・・ 私はマスクの下で唇を噛み締めながら、優しい助産師さんとお医者さんとお腹の赤ちゃんと共にこの出産を乗り越える決意を固めた。 2021年3月30日。新しい命が誕生した。明日は私の誕生日。 シンガポールに住んでいるパパがママの誕生日にあわせて送ってくれた素敵なお花が病室を彩る。病室から見える桜達もキミの誕生を一緒にお祝いしてくれているみたい。 ママはこれからキミと一緒にパパの所に行く準備。大好きだったお仕事も辞めて、キミと共に新しい人生を始める。ママも初めての海外生活でドキドキするよ。だけど、キミと一緒ならきっと大丈夫。 どこに居ても何をしていても、ママもパパもあなたのことが大好き。 沢山の愛を感じながら、充実した人生を送ってくれることをいつも願っているよ。   シンガポール Yumikoさん 題名:最高の誕生日プレゼント 子どもへ伝えたい言葉:「どこにいても何をしていても、ママもパパもあなたのことが大好き。」

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林 かおりさん「4回目の出産で何を思ったか」

林 かおりさん「4回目の出産で何を思ったか」

『3人の太郎へ』   診察室にいた。 どんな病気でどんな手術をするのか医師の説明を聞く。 「子宮頸がん初期、高度異形成」さほど珍しい病気ではない。 がん細胞の転移を食い止めるために子宮の全摘をお勧めされたのだ。 開腹手術なのかと思ったら、膣から産み落とすように子宮を取り出すとのこと。 私は少し悲しい気持ちになった。 なんか「4回目の出産」みたいだなあと思った。  簡単な手術とはいっても、命を落とすこともあり得る。 3年前、私は3人の息子たちに、以下のことを言い残した。 三人の息子たちは、現在、29歳、27歳、25歳である。 【3人の太郎へ】 ありきたりな言葉だが、お母さんはあなたたちが生まれてきてくれたことに、とても感謝している。 この世に生まれてきたことは、お父さんとお母さんの命の結合! 簡単なことではなかったが、天文学的な確率で生まれることができたのだから、必然ともいえる。 あの時の感動と歓びを本当にありがとう。 そして3人にお詫びしたいことがある。 この場を借りて伝えておこう。 お詫びは感謝の気持ちに等しいのだが。  長男 遼太郎へ お母さんは臨月まで仕事を頑張りすぎて、君にちょっぴり負担をかけてしまった。 最後まで逆子で、産まれてくときはへその緒が首に巻き付き、苦しい思いをさせてしまった。 無事に生まれてきた時はほっとした。  2歳から兄としてしっかりしろとお父さんのスパルタもすごかった。 プレッシャーも大きかったことだろう。 真っ直ぐ育ってくれてありがとう。  二男 伸太郎へ 君は生まれてすぐおっぱい飲むのが上手で成長が素晴らしかった。 笑顔が可愛くて、手もかからない子だった。 3歳の時、お母さんは赤ちゃんの晃太郎を気にして君の手を放してしまった。 目の前でトラックにかき消されたその絶望の瞬間、今思い出しても涙が出る。 血だらけになりながらお母さんの名前を呼んでいた伸太郎。 可哀そうに、痛くて怖い思いをさせてしまった。 あなたの命を私が消してしまうところだった。 本当にごめんね。 そして生きていてくれて本当にありがとう。  三男 晃太郎へ 小さく生まれて大きくなるかと思ったら、早生まれのせいか少しハンデがあったね。 甘やかしすぎてしまったのかな? 高校の時の狂言なのか本気なのかわからないあの自殺未遂。 お母さんはとてもショックで大泣きしたけれど、辛い気持ちに気づいてあげることができなくて、ごめんね。 お母さんは命の尊さを君に教えていなかったのかな。 でも、立ち直ってくれて本当にありがとう。 手術は無事に終わった。 「4回目の出産」で子宮を産み落としたことに喪失感はなく、自分なりに女性としての新たなスタートだと思った。 私は、もう妊娠、出産はできないが、ちょっぴり先輩ママとして、頑張る若いお母さんたちを応援していきたい。  妊娠し出産を経て誕生した尊い命を守っていくことは、個人だけではなくみんなの責務だと思うから。   埼玉県 林かおりさん 題名:4回目の出産で何を思ったか 子どもへ伝えたい言葉:「3人の太郎へ」

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あっちゃんさん「最愛の長男へ。ママが伝えたいこと。」

あっちゃんさん「最愛の長男へ。ママが伝えたいこと...

『自分は強くて優しい母親になれると そう思っていたし、自信があった。 なにより母親になることが、 夢であり私の目標であった。 実際に経験して... 思った以上に辛くて、涙も出て、 悔しくて。 でもそれだけじゃなく、 知る事、学ぶ事が沢山だった。 そんな経験をさせてくれた 私の愛する長男に私の想いを届けます』 人は限界が来たり余裕がないと 壊れるんだと知った。 ある朝、私は次男に添い寝で授乳をしていて、そこに長男が私の側にやってきた。 何度かやり取りをしたが、おそらく長男はママが自分の方に向いてほしいと思っていたのだろう。 でも、それに向き合うことが出来ず、いい加減にして!と私は手を上げてしまった。 大泣きする長男。 ハッ!として見た光景は、顔に傷を残してしまった。 ごめんなさい。 どうしよう。 そればかり唱えていた。 妊娠を知った時の私は、夫と泣いて喜んだのを今でも鮮明に覚えている。 変わっていく自分の身体。嬉しくて幸せでたまらなかった。 健診に行くのも楽しみで初期の時は、月に一回の健診で大丈夫なのかと心配になった。大切な命だから。 初めてお腹の中胎動を感じた時は感動して泣いた。 私がお腹を叩けば、あなたは叩き返してくれることもあったよね。 指折り数え、会えるのをどんなに楽しみにしていたか。 出産までの道のりは平坦ではなくトラブルもあり、色々な検査をしなくてはいけなくなることもあった。 痛いことも沢山、苦しいこともあった。 いざ、予定日になっても出産の傾向はなく、子宮を刺激する為に処置をしたり、もっと運動しろと言われた。 予定日から一週間位遅れた日、破水から私の出産は始まった。 尿意とは違う感じの生温かい感じで破水。しかし陣痛はついてこず、丸2日間病院で出産が始まるのを待った。 進まない出産。スクワットしたり、こんなことをして体力は続くのか?と思うほど。 いざ陣痛が始まり、夫の立会いのもと出産に望む。 今まで感じたことのない痛みに、もう、殺してくれと何度思ったか。 隣にいる夫の腕を掴んでつねって引っ掻いて。 今でもその傷は彼の手に残っている。もう、本当に無我夢中でした。 想像していたものと遥かに違うこの感覚に汗をかき泣きそうになり苦しくもがきながら。 病院に響き渡る赤ちゃんの心拍の音。 息むと弱まり。後で分かったことはへその緒が胎児の首に絡まっていたとのこと。 赤ちゃんの心拍は早いはずなのに どんどん遅くなり時折り止まりかけた拍動。 最後のいきみをしたくてもできず、そこにいた看護師さんが私のお腹を押して私の上に二人くらい乗っかって。 意識も朦朧とながら何かがスルッと出てきたように感じた。 ドラマの出産シーンとは違って赤ちゃんが泣かず。唇も真っ青になってる。 駄目だったんだ。そう思った。 管を突っ込まれて処置を受ける我が子。 処置から何分たったんだろう、かなりの長い時間に感じた。 少し立ってからか細い声で 赤ちゃんが泣いた。 ホッとした。 そこから会えたのは出産の処置を終えてからだった。 赤ちゃんの顔を見て、こんなに愛おしいものがあるんだ。 私より大切で守りたい命がここにあった。 産まれてきてくれてありがとう。 私をお母さんにしてくれてありがとう。 出産後は順調に育ってくれた長男。愛おしい息子との幸せな毎日。 だけど次男が生まれてから、お兄ちゃんだからと、私が若いだけにあの時は、君の気持ちに向き合いきれずいつも寂しいって思わせてたのかな。 もっと甘えたかったし甘えたい歳だったよね。 あの時は、一瞬の出来事で傷を負わさてしまった事、それが今でも私の胸の中に深く傷として残っている。 謝っても謝りきれない。その傷がまだ残ってるのは、母親としての傷なのかもしれない。 決して忘れちゃいけない。 でもね、これだけは言える。 私がママになれたのはあなたのお陰。 ママになってからの初めては、あなたと経験して泣いたり笑ったり毎日忙しかった。とっても幸せ。 今は、成長して大人になって行く姿に頼もしく誇らしい!と思う。 あの止まりかけた心臓の音は今でも忘れないしそれを繋いでくれてありがとう。 これから自分らしく人生を謳歌してください。いつでも味方だし、大好きだよ。   神奈川県 あっちゃんさん 題名:最愛の長男へ。ママが伝えたいこと。 子どもへ伝えたい言葉:自分は強くて優しい母親になれると そう思っていたし、自信があった。 なにより母親になることが、 夢であり私の目標であった。 実際に経験して... 思った以上に辛くて、涙も出て、 悔しくて。 でもそれだけじゃなく、 知る事、学ぶ事が沢山だった。 そんな経験をさせてくれた 私の愛する長男に私の想いを届けます。

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ふみかママさん「長いようで短かった出産までの道のり」

ふみかママさん「長いようで短かった出産までの道の...

『辛いこと、悲しいこと、何か困ったことがあったら1人で抱え込まずお母さんや周囲に頼って生きて良いんだよ』 高校生の頃から生理不順や月経困難症に悩まされていたが、30代に入ってから運良く妊娠することが出来た。 幸せな妊婦生活が始まると思ったのも束の間、私はつわりで寝込んでしまった。 吐きづわりとよだれづわりが2ヵ月続き、 体重は7キログラム痩せた。 結婚してから地元を離れたので周囲に頼れる人がおらず、実家を頼りたかったが遠方なのと、コロナ禍で制限が厳しい時期だったので難しかった。 生きることで精一杯で掃除や洗濯、食事もほとんど準備出来なかったのだが、主人は嫌な顔一つせず仕事と家事を両立してくれた。 それどころかいつも笑顔で、他に何か出来ることがあったら教えて欲しいと言ってくれた。 つわり期間が終わって一緒に美味しい食事を味わえた時、何よりの幸せを感じた。 安定期に入ると、適度な運動も兼ねて近場を散歩したり、ドライブに連れて行ってもらい充実した妊婦生活を送れた。 妊娠後期は激しい腰痛や夜間頻尿で眠れない事があったが、娘と過ごす生活を考えながら小さな子供服や、産後に必要なものを揃えていくのが楽しかった。 主人は出勤前と就寝前、それと私が胎動を感じると必ずお腹の中の娘に話しかけてくれたのだが、その時間がとても愛おしかった。 娘の名前はぎりぎりまで決まらなかったのだか、主人と一緒に毎晩じっくり話し合いが出来たのも貴重な時間だった。 私は計画無痛分娩で出産予定だったのだが、予定日が近づくに連れて不安が大きくなっていった。 そんな私を励ます為に、父がわざわざ遠方からバイクで7時間かけて会いに来てくれた。 お腹の大きい私の写真を撮ってくれて少し雑談するとすぐに帰ってしまったのだが、父らしいなと思いながらもとても嬉しかった。 母も、産後の私をサポートする為にわざわざ仕事を退職して1ヵ月程こちらに来てくれることになり、申し訳なかったがとても心強かった。 出産予定日前日から処置の為、入院した。 翌日、陣痛促進剤を投与してもらうも娘はまだ私のお腹から出たくないらしく子宮口が思うように開かず、夕方頃に断念した。 翌日にもしも産まれなかったら一度退院してもらって、自然に陣痛を待った方がいいかもしれないと言われ、私は混乱した。 赤ちゃんはすぐ産まれてくれるものだと思っていたのと、無理に促進剤を使って赤ちゃんに辛い思いをさせてしまったのではないかと 後悔した。 部屋に戻ると涙が止まらなくなって、巡回にきた助産師さんが話しを聞いてくれてやっと落ち着くことができた。 翌日、分娩室に入ると助産師さんが少しでもくつろげるようにと、足湯を準備してくれた。 その時、何かが破裂したような音がして下の方が急に温かくなった。 その旨を助産師さんに伝えると、破水したので今日中に産もうね、きっとお母さんの気持ちを察して赤ちゃん出てきてくれようとしてるんだよ、と笑顔をむけてくれた。 子宮口が5センチメートルになった時、陣痛が激しくなり初めて体験する痛みを感じた。そのタイミングで麻酔を使用してもらい、痛みも和らぎ子宮口全開まで体力温存することができた。 いきむのが難しく最後は嘔吐して力尽きそうになってしまったのだが、助産師さんや先生の支援のおかげで無事に娘が誕生した。 産まれたばかりの娘を抱っこさせてもらうと小さくてとても温かかった。 そんな娘にはまずは元気に生まれてくれてありがとうと伝えたい。 そして、人は誰かに助けてもらわないと生きていけないものだから、1人では乗り越えられないと思ったら周囲の人を頼ってもらいたい。 そして、娘にも困っている人がいたら手を差し伸べられるような優しい人になってほしい。   神奈川県 ふみかママさん 題名:長いようで短かった出産までの道のり 子どもへ伝えたい言葉:「辛いこと、悲しいこと、何か困ったことがあったら1人で抱え込まずお母さんや周囲に頼って生きて良いんだよ」

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田川菜里美さん「ハイヒールとスニーカー」

田川菜里美さん「ハイヒールとスニーカー」

『この先ママやパパを鬱陶しく思う時が来ても、抱っこも手を繋ぐ事すらなくなっても、今この時と同じ気持ちで、一生愛しているよ。』   ハイヒールが好きだった。 ゆっくりと進む人たちをお気に入りの服を着て、スイスイと追い抜いて行く。 仕事の新しいプロジェクトや出張、やりがいを感じていた毎日。「妊娠していますね。」と言われたあの日から、私の生活は全く別のものになった。 1人だけど1人じゃない、今までの当たり前は当たり前では無くなった。通勤の満員電車は気分が悪くなり、立ち眩みで座り込む。朝にかろうじて食べた苺も直後に吐いた。 仕事中もお腹が張って残業も難しい、出張にも行けない。職場の仲間に申し訳なくて落ち込む。 そんな時を見計らったようにアナタは私のお腹を「ボン」と蹴飛ばして、励まして喝を入れてくれた。産休に入ったらゆったり過ごそうと決めていたのだけれど、携帯で色んな情報を何度も何度も検索し、不安になって泣く夜が良くあった。 アナタが「ボン」と蹴飛ばしてくれない時には心配で堪らなくなり何度もお腹をさすった。 お酒も飲めないしレアステーキもお寿司も食べられない。変わらないパパが羨ましくなる日もあったけれど、ママと一つのアナタがいつもそばにいた。 2019年6月13日、ママとアナタは2人になって、アナタはあーちゃんになった。 初めて抱っこしたあーちゃんは赤くてしわくちゃで思い切り泣いていて、暖かい気持ちが込み上げて、何があっても守りたいと思った。 そしてあーちゃんが1歳7ヶ月のとき、また宝物がお腹の中にやって来た。幸せな気持ちとは反対に世界中で未知のコロナウイルスが拡大していた。毎日悲しく辛いニュースが流れていた。 不安で暗い気持ちに襲われそうな時、あーちゃんの笑顔に救われた。公園や地域の遊び場で出会う妊婦さん、子育て仲間、職員の方達に励まされた。 だからお腹のアナタが安心して産まれて来られるように、なるべく毎日笑顔で過ごそうと決めていたんだよ。 2021年8月27日、分娩台でアナタはなかなか出てこなくて「ママのお腹の居心地がいいのね。」なんて最初は助産師さんと冗談を言い合ってたんだけれど、どんどん時間が経ち痛みも強くなり、それでも産まれず、あーちゃんの分娩時間はゆうに超えて、呼吸も苦しい、コロナ禍で必須のマスクも苦しい、涙も出て、途中付けられた酸素マスクも吐き気に襲われて取ってしまう。 「小児科の先生呼んできて!」と大きめの声。 バタバタと聞こえる数人の足音。 いきむ、痛い、産まれない。 先生と助産師さん達が話す声、私を励ます声、しばらく経って「赤ちゃんも苦しそうなので吸引で出します。」と先生の声。 アナタが苦しそうと聞いてママは息が止まりそうだった。 頷くと強い痛みと引っ張り出される感覚、耐える、耐える。 すると「頭見えてるよ!いきんで!」の声。無事を祈りながら思い切りいきんだ。 直ぐに聞こえてきた元気な泣き声に安堵と嬉しさで涙が止まらなかった。 アナタとママは2人になって、アナタはさーちゃんになった。 あーちゃん、さーちゃんのお陰でママはたくさんの人に支えられている事を知れたよ。 家族はもちろん、職場、病院の先生達、地域の子育てサロン、区のマタニティセミナー、公園や電車の中、数えきれない程たくさんの人と関わって助けてもらって来たよ。 だから次はママがお返しをしたいんだ。同じママやパパ達と助け合って一緒に楽しく子育てをしていきたい、応援したい。 まだママも初心者ママだけど、30年続く子育てサークルの代表として一歩踏み出したよ。 区のプレママ達の前や子育てサロンで先輩ママとしてお話しして、日々沢山の仲間に出会えているよ。 ヒールも大好きだったけど、今は2人と一緒にゆっくり歩いてどんぐりを見つけて、追いかけっこ出来るスニーカーがママの大好きな相棒。 私達をママとパパにしてくれて、こんな温かい愛おしい気持ちを教えてくれてありがとう。2人を産めたことがママの一生で一番の幸せだよ。   神奈川県 田川菜里美さん 題名:ハイヒールとスニーカー 子どもへ伝えたい言葉:「この先ママやパパを鬱陶しく思う時が来ても、抱っこも手を繋ぐ事すらなくなっても、今この時と同じ気持ちで、一生愛しているよ。」

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あやななさん「コロナ禍での第2子出産」

あやななさん「コロナ禍での第2子出産」

『ママとパパに色んなことを教えてくれてありがとう。産まれてきてくれて本当に嬉しいよ。これからも沢山思い出を作ろうね。』 私が第二子を出産したのは、2021年9月のことです。 予定日より1か月以上早い、35週での出産でした。その日は朝からお腹に痛みを感じていました。夕方になり痛みの感覚が狭まってきて不安になり、産院に連絡するとすぐに来るように言われました。ちょうど主人が休みで家にいたので、4歳の息子と一緒に車で産院まで連れて行ってもらいました。   医師の診察の結果は「切迫早産」でした。 このままでは産まれてしまう状態であり、その場で入院するように告げられました。その時の息子は状況がまだよくわかっていないようでポカンとした様子でした。コロナ禍ということもあり、PCR検査で陰性を確認後に入院しました。目標は36週まで赤ちゃんを少しでも長くお腹で育てることで、24時間点滴に繋がれた生活が始まりました。突然家族と離れ離れになって心細く、ビデオ通話などで毎日会話は交わしていましたが、息子の様子も気になっていました。   それから2日間入院しましたが、破水をしてしまい急遽救急車でNICUのある病院に転院することになりました。その時は、全く知らない病院での出産になると伝えられ、当然のように検診で通っていた病院で出産するものだと思っていた私はショックを受けました。それと同時に、36週前の出産となると赤ちゃんには様々なリスクがあるので、不安を感じていました。「あともう少しだったのにごめんね。」という気持ちでいっぱいでした。   転院してから出産まではあっという間でした。 点滴を抜いた後、すぐに陣痛が強まってきて、マスクをしながら約6時間で第二子となる女の子を出産しました。出産後は娘の体重が小さめで呼吸が少し苦しい状況だったので、NICUの先生方がすぐに娘の処置をしてくださり、しばらく保育器に入ることになりました。入院生活中は、NICUにいる娘の為に3時間おきに母乳を搾乳しました。はじめは母乳がなかなか出なかったので、わずかにでた母乳を綿棒に吸わせたものを毎回NICUの面会時に持参していました。   私が退院して自宅に帰ってからは、毎日搾乳をして病院に冷凍母乳を届ける日々が始まりました。産後すぐに家から離れた病院に通うことは、とても大変でした。そして、私が退院した日から2週間遅れて、娘は無事に退院することができたのです。   それからは、また定期的に娘を通院させなければならなくなった為、私は車の運転の練習を始めました。私は運転がとても苦手で長らくペーパードライバーだったのですが、娘のためにまた運転にチャレンジしようと決意しました。家族の協力のもとでしばらく練習を重ねた結果、無事に一人でも乗れるようになりました。   今回の出産は、コロナ禍で切迫早産になり低出生体重で産まれたことなどもあり、二人目でありながらも初めてのことだらけで、不安が多かったです。 しかし、娘のおかげでこの1年間は初めての経験を沢山乗り越え、自分のずっと苦手だったことにも挑戦して克服することができました。 今は娘がちょうど1歳の誕生日を迎えて、健康にも問題なくすくすくと成長しているのがとても嬉しいです。 お兄ちゃんは、私が入院中はお家でパパと2人でとても頑張って待っていてくれました。この1年間は沢山我慢をさせてしまったと思います。 どうしても妹のお世話にかかりきりになってしまうことが多く、構ってあげられない時があり寂しい思いをさせてしまうことも多かったです。しかし、息子は文句も言わずにおむつを持ってきてくれたりするなど沢山お手伝いをしてくれました。 「本当にありがとう。」と心から思います。 2人育児はまだまだ慣れませんが、これからも大切なかけがえのない存在の2人に愛情を注いでいきたいと思います。 今は喧嘩してしまうことが多い兄妹だけれど、これから2人が成長する中で、だんだん仲良くなっていく姿が見られたら嬉しいです。   神奈川県 あやななさん 題名:コロナ禍での第2子出産 子どもへ伝えたい言葉:ママとパパに色んなことを教えてくれてありがとう。産まれてきてくれて本当に嬉しいよ。これからも沢山思い出を作ろうね。

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佐藤有紀さん「背中を押して押されて。一緒にがんばった先に…。」

佐藤有紀さん「背中を押して押されて。一緒にがんば...

『楽しい!大好き!に夢中になれるように励ますよ。次の一歩をずんずん進んでね。目まぐるしい 毎日をありがとう。 』 「ぼくがいるから ママしごとできなくてごめんね」なんて言わなくていいよ。 実は違うかもしれないよ。 私が行きたい場所とあなたが行きたい場所を一緒に探してるんだと思うんだ。 出産の真っ最中「赤ちゃんも痛い思いしてがんばってるよ!」と声 をかけられた。 「えっ?私が痛いだけじゃなくて赤ちゃんも痛いの?!この痛みを赤ちゃんが?どれだけの思いで出てこようと思ってるの?!」「痛いなら諦めるんじゃないの?赤ちゃんって泣くだけじゃないの?」 「そうか・・。じゃあ一緒にがんばろう!」と、私はいきみながら赤ちゃんにがんばれがんばれと思ってた。 私も痛いけど、応援してるほうが気が紛れた。 育休終了を待たず復職するころ、そろそろおっぱい卒業してほしいなと思っていたとき。 飲む量が増えたのか、出る量が減ったのかおっぱいが足りなくなった。 どんなに吸っても思うように飲めず、泣くこども。 出ないおっぱいの乳首の痛さに、涙するおとな。 お互い泣いたけど、おかげですんなりミルクと離乳食に移行できたね。 理由もなくひたすら「だっこ!だっこー!!」とぎゃんぎゃん泣く2歳のあなた…。 抱っこし続ける苦痛と、ただの抱っこですら交代がないことにママも声を出して泣いたとき、あなたは一瞬泣き止んでママと顔を見合わせたよね。 お互い頑張ってるという思いを共有して落ち着いたね。 小学生になった今でも、産まれた時からずっと『応援して応援されて勇気をもつ』という関係だね。 「学校に行きたくない!」と言い続けて「ママといっしょなら学校行ける…」と母子登校することになって、フルタイム勤務のママは当然仕事に行けなくなった。 ママは想定外だったけど、考えてみれば「会社にずっといたかったのかな?お給料のために割り切って仕事してただけ?」まるで会社に行きたくないママの気持ちを汲んでくれたかのようだった。 結婚することも子供を持つことも興味がなかった私だけど、ある時自分だけの時間を持て余しててつまんないなと思ったんだよね。 子供がいたら持て余すなんてことないんだろうなと思ったら、赤ちゃんがやってきた。 そうか、私には子供を育てるというミッションが課せられてるんだな、と思った。 すべての人にそのチャンスが巡ってくるわけじゃないことがわかっていたから。 高齢だから「出生前診断」を勧める人もいたけど、なんの意味があるのかわからなくてやらなかった。産まない選択肢がないんだから必要ないでしょ? だから私はあなたからチャンスをもらった!と思っているの。 今はひたすらあなたに寄り添っているけど、心の片隅で私は仕事して稼いで社会に貢献している実感が欲しい!と願ってるし、どうやったらできるのかずっと考えてる。 そして同時にあなたの将来も考えてる。 私も自由に仕事ができて、あなたも羽を伸ばせる本来の居場所があるよね?と思ってる。 だから、もしいま「本来居るべき場所」ではないなら、つらいよね。 ぼくの居場所はここじゃない!ママの居場所はそこじゃない!って。 こんな風にお互いを思って応援したり応援されたりすることで、一歩進むことができてるよね。いつも一人でがんばってるわけじゃなかったね。 ママ大好きと言ってくれてうれしいよ。 ママも大好きだよ。この一言、勇気が出るでしょ。 つらいことがあったら、そうやって一緒に成長してきたこと思い出してね。 どんなあなたでもキライになんてならないから心配しないで。 ママの存在があなたの背中を押しますように! 私の背中をあなたが押してくれたように…。   神奈川県 佐藤有紀さん 題名:背中を押して押されて。一緒にがんばった先に…。 子どもへ伝えたい言葉:「楽しい!大好き!に夢中になれるように励ますよ。次の一歩をずんずん進んでね。目まぐるしい 毎日をありがとう。 」

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yukaさん「家族の祈りの中で産まれてきてくれたあなたへ」

yukaさん「家族の祈りの中で産まれてきてくれた...

『みんなで待っていたよ。お母さんにしてくれてありがとう』 あなたは家族の祈りの中で産まれて来ました。あなたの誕生をみんなが待っていました。おじいちゃんは孫の誕生で初めて嬉し涙を流しました。 そんなあなたがお腹の中にいた時のこと、誕生の瞬間。 私は全く覚えていません。 産まれたばかりのあなたを育ててくれたのはお父さんとおばあちゃんです。 お父さんが育休を取ってくれて、おばあちゃんが香川から横浜に来てくれて、大切に育ててくれました。 可愛いあなたの最初の3ヶ月、私はそばにいませんでした。 なんてひどい母親だ、と怒るでしょうか? 優しくて、賢くて、ちょっぴり面倒くさがりなあなたなら「大丈夫だよ、怒らないよ。てか全部分かってたし!」って言ってくれるのかな。 あなたにはお姉ちゃんがいます。 私のお腹の中で感染が起きてしまい、妊娠を続けることができませんでした。 妊娠18週でお姉ちゃんはお空に行ってしまいました。 ちゃんと産んであげられなかったことが悲しくて自分を責めて私は心の病気になってしまいました。 家事も仕事もできなくなり、家族に支えられて何とか生きていました。 少し元気になった頃あなたがお腹に来てくれました。 お姉ちゃんの妊娠が分かったのと同じ月私の実家から徒歩15分の新しい家に引っ越した日でした。 頼りないお母さんだからおじいちゃんおばあちゃんの近くに来た時にしよう。お姉ちゃんと同じタイミングでちょうどいい、と考えたんだね。 本当に賢いね。 案の定、私はつわりで動けなくなってまたお姉ちゃんのようになってしまったらと不安で妊娠6ヶ月の時に精神科に入院しました。 私はぼーっとしてしまっていて「妊娠している気がしない」って言っていたみたい。母子手帳も途中から真っ白。 あなたは逆子でほとんど動かなかったそうです。 そのまま帝王切開になりました。 元気がないお母さんだからエネルギーを消費しないようじっとしていよう。 出産に耐えられそうもないから帝王切開にしよう。 そう考えたんだね、優しいね。 動くのしんどいし産道通るのも大変だしって面倒くさがりなだけだったかも? そんな私の妊娠出産だから家族はとても大変で心配で。 だからこそ、あなたの無事の誕生を祈り待っていました。 待ちに待った誕生の瞬間、産声、覚えていられなかったこと本当に悲しくて悔しいです。 でも帝王切開だったおかげで私のお腹にはあなたが確かに産まれてきた証、傷が残っています。 これもあなたの優しさですね。 私は出産後も3ヶ月間精神科の入院が続きました。 可愛い新生児のあなたと離れ離れでした。 おっぱいもあげられませんでした。 お父さんとおばあちゃんが頑張ってくれました。 よく寝てよく飲んで、手のかからない赤ちゃんだったそうです。 優しくて家族思いのあなただもんね。 私はその間、病気の治療として頭に電気を流す手術を16回受けました。 おかげでなんとか元気になったけれど副作用で過去数年の記憶がなくなってしまいました。 お姉ちゃんとのお別れの記憶、そして大切なあなたの妊娠出産の記憶がすっかり失われてしまったのです。 それが分かった時は信じられなかったしショックでしたなんてひどい母親なんだろうと苦しかったです。 でも家族は言ってくれました「家族みんなが覚えているから大丈夫だよ」 そしてお父さんは言ってくれました。「これから思い出を作ればいいよ」 お父さんとおばあちゃんに教えてもらいながら少しずつあなたの子育てを覚えていきました。 母親として情けなかったけれど家族の支えと、何よりあなたのおかげで遅ればせながら「お母さん」になることができました。 辛抱強く待ってくれていたんだね、可愛い笑顔で励ましてくれたんだね。 それから3年。 3歳になったあなた。 祈りの中で無事に産まれて来てくれたあなたの成長を家族はとても嬉しく幸せな気持ちで見守っています。 優しくて、賢くて、ちょっぴり面倒くさがりなあなたの成長をみんなでこれからも楽しみにしています。 お空のお姉ちゃんも一緒にね。 産まれて来てくれてありがとう。 お母さんにしてくれてありがとう。 2022年9月 大切な息子へ、お母さんより   神奈川県 yukaさん 題名:家族の祈りの中で産まれてきてくれたあなたへ 子どもへ伝えたい言葉:「みんなで待っていたよ。お母さんにしてくれてありがとう」

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カープママさん「私の大切な宝物」

カープママさん「私の大切な宝物」

『いつも「ママ大好き!」と言ってくれてありがとう。ママもあなた達のことがとっても大好きだよ!これからもよろしくね!』 私には2人の可愛い子どもがいます。 上の子はこの夏3歳になった元気いっぱい、お調子者で少し泣き虫な男の子。下の子はそんなお兄ちゃんに日々可愛がられながら、よく食べ、よく寝て、よく笑う10か月のムチムチの女の子です。 乳幼児が2人いると毎日がもう大変です。お兄ちゃんがママの真似をして妹を抱っこしようとするも、支えきれず転倒し2人してギャン泣き。お兄ちゃんの絵本を妹が破り怒ったお兄ちゃんが妹を小突いて2人してギャン泣き。妹のおむつを替えている最中にお兄ちゃんも催し、急いでトイレに連れて行っている間におしり丸出しのまま妹がハイハイで部屋を脱走・・・。 毎日慌ただしく過ごしているとつい忘れてしまいますが、息子の出産は予想外の出来事の連続でした。 息子の妊娠中、私は働きながら初めてのマタニティライフを楽しんでいました。 徐々に大きくなるお腹をさすりながら数ヶ月先の出産を楽しみにしていました。そんな中妊婦健診がありました。 その日は午前中に休みをもらい病院へ行き、午後出社する予定でした。いつも通り尿検査等をしましたが、血圧が150を超えていました。再度計測しましたがやはり高いまま。少し不安を感じながらも体調はいつもと変わらず、先生の診察を待っていました。暫くして診察室に呼ばれると、先生から深刻な顔で「血圧も高く、尿に蛋白が出ています。このまま入院してください。状況によってはすぐに帝王切開になる場合があります。」と言われ呆然としました。 出産?まだ7ヶ月になったばかりなのに?産休前でやり残した仕事があったので入院は明日からではダメかと聞いてみましたが、「ダメです。あなたは妊娠高血圧症候群で、絶対安静が必要です。最悪の場合命に関わります。」と言われ、事の重大さに驚きました。 そのまま車椅子で運ばれ即入院。あまりに急な展開に中々現状を受け止めることができませんでした。お腹の赤ちゃんの大きさはまだ1000gも無かったのです。 その後薬や点滴を投与し、シャワーの時間以外はベッドの上で安静にする生活を送ったお陰で血圧の上昇も抑制され、今すぐ出産が必要な状況は乗り越えることができました。当時はコロナ禍前だった為、遠方の母が見舞いに来てくれたり仕事帰りに夫が顔を出してくれたりして、不安はあったものの比較的心穏やかに過ごせました。 しかし、入院生活が1ヶ月を過ぎた頃から薬が効かなくなり、血圧も160を超える日が増えてきました。 心の準備はしていたものの、先生から手術をすると言われた時は生産期までお腹の中で育てることができず、申し訳なくて涙が出ました。 手術は無事終わり、息子は元気な産声をあげ生まれました。妊娠31週2日、体重1120gのとても小さな赤ちゃんでした。 すぐにNICUに運ばれ私が先に退院した後も息子は入院が必要な為、毎日母乳を届けに病院に通いました。入院中予断を許さない状況になったことがありましたが、生後1ヶ月を過ぎる頃には体からチューブが外れ、生後2か月頃退院し待ちに待った家族3人での生活をスタートすることができました。 嬉しいのは勿論ですが、これからは小さな息子を私達で育てなくてはいけないという不安が大きかったです。 しかし、そんな心配をよそに息子はすくすくと大きくなり、妹が生まれてからはお兄ちゃんとして頑張ってくれています。 現在、身長の成長は年相応で問題無いと先生に言われており喜ばしく思う反面、自我も芽生え親の思い通りに動いてくれず怒ることが増えています。 生まれた頃はあんなに愛おしく、可愛くてたまらない存在だったはずなのに、怒りの感情のまま叱ってしまうことも多々あります。 今回の作文をきっかけに、子ども達が大好きで宝物のような存在であることを再確認することができました。いつも怒ってばかりでごめんね、これからたくさん楽しいことを経験していこうねと伝えたいです。   神奈川県 カープママさん 題名:私の大切な宝物 子どもへ伝えたい言葉:「いつも「ママ大好き!」と言ってくれてありがとう。ママもあなた達のことがとっても大好きだよ!これからもよろしくね!」

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横山安紀子さん「蓮、大好きだよ!」

横山安紀子さん「蓮、大好きだよ!」

『あなたの成長を一緒に見守り、喜んでくれる人たち』 2020年9月9日午後10時52分、蓮は元気な産声をあげながら産まれてきてくれました。 お父さんとお母さんは結婚してから、なかなか赤ちゃんを授かれず、一度、妊娠するも初期流産をしてしまいました。 でも、お母さんは諦めなかった。いつかまた命を授かり、今度は元気に産んであげられるように…と食事の工夫をし、身体のケアをしたり、時には気分転換にお父さんと旅行に出かけたりしました。 その時からたくさんの方々がお母さんにアドバイスをしてくれて、元気な赤ちゃんを授かるように応援してくれたんだよ。 鍼灸院の先生方、薬局の薬剤師さん、料理教室の先生…皆さんに励まされて、お母さんは2人目の命を授かる事ができました。 それが蓮です。お母さんもお父さんもうれしくて、うれしくて…そして、「この子はきっと元気に産まれてくる!」って信じて、毎日お腹に話かけていました。 ちょうどその頃、コロナウイルスが流行し出して、心配や不安もあったけど、蓮は順調にお腹の中で育ってくれて、大きなトラブルもなく、毎回の健診でエコーを見るのがとても楽しみでした。 そして、待ちに待った出産の時… なかなかお産が進まなくて、お母さんも疲れてきた時、お父さんが病院に駆けつけてくれたんだよ。怖がりのお父さんは最初は「分娩室に入らん」って言ってたんだけど、お母さんがあまりにも苦しんでいるのを見て、「僕も一緒に分娩室に行くわ!」って一緒に頑張ってくれました。 お母さんはお父さんが倒れてしまわないか?と、とても心配でしたが、「がんばれー!がんばれー!」って大きな声でたくさん応援してくれました。そして、元気な産声をあげて蓮が産まれてきてくれました。辛かった陣痛も一瞬で忘れてしまったほど、本当にかわいくて、すごくしあわせな瞬間でした。そうして、蓮との新しい日々が始まりました。 蓮は抱っこをしていないと泣いてしまう、そして、抱っこをしないと寝ない赤ちゃんでした。だから、お母さんはずーっと蓮を抱っこして過ごしていました。はじめての育児でわからない事だらけ。睡眠不足もあって、最初の頃は育児が本当に辛かったです。 蓮が生後3ヶ月の時から、お母さんは少しずつ仕事に復帰していきました。 生後6ヶ月になると、お母さんも本格的に仕事に復帰。2時間ほど託児所に預かってもらって、仕事をしました。初めて預かってもらった日をお母さんは忘れません。 大泣きする蓮を置いて仕事に行く事が本当に辛かった。託児所の先生が「お母さん、大丈夫ですよ。みんな通る道ですから。すぐに慣れますよ!」って言って下さった言葉に何度も救われました。 今では保育園の一時預かりも利用して、楽しそうに過ごしている様子をみると、たくましくなったなーと思うと同時に蓮なりに一生懸命がんばってお母さんの帰りを待っていてくれてるんだな…と、お母さんも頑張らないと!と勇気をもらっています。 明日は蓮の2歳の誕生日!あなたの誕生日にはたくさんの「おめでとう」の言葉をいただくのです。 妊娠前からたくさんの方に支えて頂き、そして、ちょっと早めに託児所や保育園で預かって頂いた分、先生たちも蓮の成長がうれしいのです。みんな蓮が大好きなんだよー。 もし、蓮が大きくなってどうしようもなく辛い時、思い出して下さい。 蓮の成長を一緒に見守り、喜んでくれる人がたくさんいる事を。 あなたはたくさんの愛に包まれて大きく成長した事を。だから、大丈夫だよ!蓮、大好きだよ!お父さんとお母さんのところに生まれてきてくれてありがとう!   和歌山県 横山安紀子さん 題名:蓮、大好きだよ! 子どもへ伝えたい言葉:「あなたの成長を一緒に見守り、喜んでくれる人たち」

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中野玲奈さん「出産から見える子どもたちの思い」

中野玲奈さん「出産から見える子どもたちの思い」

『母は命を与えるのでは無い、むしろ与えられるもの』 子どもが産まれる。 それは命を与えたと言うより私自信が何かを与えられた感覚が強く、人生で忘れられない瞬間です。 1人目ときは産まれてくるまであまり母になる自覚はなく、ただお腹に赤ちゃんかいるけど今を楽しもうと軽い気持ちで日々を過ごしました。 妊娠期間も出産の前々日に山登りをしたりするぐらい常に体調も良好。 でも出産はいきなり、深夜の破水から始まりました。 トイレに座ると小さくパンと音がしてチョロチョロとピンク色の水が。 あれこれは?と思ってると段々と痛みがではじめ陣痛とわかりました。すぐに病院に電話し直行。30分の道のりがすごく長く感じられました。 病院について陣痛の痛みにずっと耐える横で旦那は眠り、1人で戦い続けました。 5時間ほど耐えた所で、陣痛の痛みが強くなり分娩室に。そこからは30分で産まれました。 2684g 少し小さめの男の子です。 生まれた瞬間、すぐに胸の上に置かれ弱々しい体なのに夢中でおっぱいに吸い付いて来る姿に涙が溢れたのを覚えてます。 それと同時に今まで何のために生きてるかわからなかった人生に1本の道が示されました。 この子のために生きていく。 そう、子から私の命が与えられたのです。 与えたようで与えられる。 多分これが死ぬまで続いていくと悟りました。 そして子供自体が使命を持って産まれてくることを実感しました。 2人目は実は夫婦の関係が上手くいかず、2人目を授かることで少しでも旦那が子どもに目を向けて欲しいという希望のもと、子を授かりました。 しかし旦那は私が妊娠しても生活が変わらず、あまりにも辛すぎて妊娠中に上の子を連れて実家近くに別居を決意。 お腹に赤ちゃんがいる中、一人で4ヶ月程子供を育てていました。 出産まであと3ヶ月というところで、陣痛が起りました。 初めはお腹が痛いだけと思って様子を見たら、次第に五分感覚で痛みがきてこれはおかしいと思い病院に。 即、切迫早産で入院が決まりました。 何も準備する間もなく息子と離れ、出産まで長い入院生活の始まりです。 コロナ禍だったので誰とも面会も出来ません。 息子を旦那に預けるのは本当に恐怖で、何度も後悔しました。 息子にも会えないことはすごく辛く悲しかったですが、すぐに預ける保育園が見つかったり、義母が仕事を休みをとってくれたり、母には子どもからお母さんの休憩時間与えられたんだよ、甘えればいいと何度も言われ救われました。 本当に私の周りにはこんなに心強い味方がいることを初めて知りました。 旦那には常に振り回されましたが、たくさんの人に支えられ無事2ヶ月半の入院期間を乗り越えました。 出産は37wに帝王切開。 逆子が治りませんでした。 手術の時間は13時に始まり42分には出産。 14時には病室に向かってました。一瞬でした。 お腹の子は小さいと言われてたのに生まれてみたら2946gの男の子。 大きくて逞しくて驚きました。 ちなみに術後すぐは陣痛の痛みに比べたら帝王切開の方が楽ちんって思ってましたが、麻酔が切れたあとは2日程信じられないほどの激痛との戦いなのでどちらも辛いです。(笑) 2人の出産を終え、気づいたことは子どもは母のお腹に来る時に何か使命を持っていること。 例えば離れそうな家族をつなぎ止めたり、悲しい過去を変えたいとかだったり… うちの息子たちの思いは、母の居場所と、家族の在り方です。 生まれてきた瞬間にそのメッセージをプレゼントしてくれたこと、私を変えるきっかけを作ってくれたことに、いくら感謝しても足りないぐらいです。 だからこそしっかりその思いを抱きしめて私はこの後子供たちが見る夢を応援するだけ。 そして母は強くはない、弱くて脆い。 でも強く見えるのは守りたい君たちがいるからなんだよと伝えたい。   山梨県 中野玲奈さん 題名:出産から見える子どもたちの思い 子どもへ伝えたい言葉:「母は命を与えるのでは無い、むしろ与えられるもの」

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にゃみさん「一緒に大きくなろうね」

にゃみさん「一緒に大きくなろうね」

『あなたがお腹に来てくれてから、いつも頑張ってままを助けてくれたね。ままも一緒に成長したいから、一緒に大きくなる!』  入社して1年が経とうとしていたこの日は、私の人生が大きく変わる運命の日になった。  「何か気持ち悪い...」よく風邪をひいていた私は、絶対胃腸風邪だと思い会社を早退した。 車で20分走り帰宅すると、昼からの診療まで時間があったからなのか、ふと妊娠検査薬もやってみよう!と薬局に買いに行き、すぐに検査してみることに。 この時何の迷いも焦りもなく、軽い気持ちで検査しようと思えたのは未だに謎...。2つ線が出たら妊娠かぁ。なんて思ってる間に一瞬で2つの線がくっきり!!「え!うそ!」やばい、本当に妊娠してた。この吐き気はつわり?検査薬は99%当たると書いてあるが、すぐに事実を確かめるため産婦人科へ行くことに。 初めて行く病院に不安で、親友に付き添ってもらった。ドキドキしながらも、不思議とどこか強気で、診察室に入り診てもらうと「おめでとうございます。赤ちゃんの心臓元気に動いてるよ」と先生は言った。初めて見た赤ちゃんは2mm。 まるで米粒のように小さく、まだ人の形もしていなかった。「次は彼も連れておいでね」と先生はニコッと微笑んだ。待合室で待つ親友に震える声で「やっぱできてた」と伝え、2人で顔を青ざめたのが初めてあなたを感じた日。 彼にはすぐメールで報告した。本当は、もう少し気持ちの整理をしてから話したかったけど、とにかく吐き気がひどく、実家暮らしの私は隠すことも出来ず、悩む時間もなかった。 正直、産まないという選択もなければ、産むということも考えられなかった。19歳の私は、ちゃんと親になれるのかな...不安で仕方なかった。仕事から帰ってきた母に何度も謝った。 いつも何をしても絶対謝らない私に母は驚き、何があったのがすぐに聞いてくれ、正直に全て話した。緊張で涙が溢れた。母は「え!おめでとう!良かったね!」と喜んでくれて私はびっくり。怒られるとばかり思っていたからとにかく驚いた。父にも殴られる覚悟だったが「すぐに彼を連れておいで」とあまりの優しさ?に戸惑った。彼が来て、車の中で2人で少し話した。 「どうする?」と聞くと 「産んでほしい。結婚しよう」と迷わず言ってくれて、これまたびっくり! 「2人で頑張ろう」と握ってきた手は、少し震えていたが、とても温かく安心した。 それからトントン拍子に結婚、つわりは8ヶ月まで続き、8キロも体重が減り、フラフラだったけど、赤ちゃんは順調。マタニティーブルーで夜になると毎日、出産が不安で涙がとまらなくてね。注射1本でも嫌だ。と泣いていた私。 妊婦検診も採血ばかりで辛かったなぁ。3ヶ月間の2人の新婚生活は、これからの生活について話したり、3人で住むアパートを決めたり、あなたの名前を考えたり。本当に幸せな時間だったな。 予定日を12日過ぎ、強制入院。促進剤で陣痛は起きてきて、いよいよだ!と燃えていたけど、子宮口がなかなか開かず、先生も手伝ってくれたけど破水。 「このまま進まず日付が変わったら、緊急帝王切開に切り替えます」そう言われてからの時間は一瞬で、なんとなくこうなるんじゃないかと思っていた私は、「あぁ、やっぱりか...」と涙。 手術は怖いけど、産まなきゃあなたに会えないし、震える手で同意書にサインをし、歩いて手術室に入った。本当に怖くて震えが止まらなくて、麻酔もうまく入らず何度も失敗。 やっとで手術が始まると、すぐにあなたは生まれました。泣き声が聞こえて「あぁ、産めたんだなぁ。私も赤ちゃんも生きてる。良かった」ってすごく安心した。 あの日から12年。本当に色々あったけど、大変だったからこそ今すごく幸せで、ままになってたくさん強くなれたよ!ありがとね!だいすき。   岐阜県 にゃみさん 題名:一緒に大きくなろうね 子どもへ伝えたい言葉:「あなたがお腹に来てくれてから、いつも頑張ってままを助けてくれたね。ままも一緒に成長したいから、一緒に大きくなる!」

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mikityさん「生きる」

mikityさん「生きる」

『今は何も見えなくても、必ず道はひらけるから』 予定日1週間超えても、あなたはお腹でのんびりしていました。 医師からは、「とにかく歩いてください。来週まで生まれなければ促進剤です。」と言われ、あなたのおばあちゃんと私は、臨月の大きなお腹で6時間も鎌倉を散策しました。 後からおばあちゃんは、「内心、生まれちゃうんじゃないか」と気が気じゃなかったと笑っていました。その甲斐あって、その日の夜、陣痛が始まりました。でも、若かった私は、お産を甘く考え体重管理を怠り17キロも体重が増えたせいで、陣痛は微弱…34時間もかかりました。 あなたはお腹の中で苦しかったと思います。生まれたばかりのあなたの声が聞こえず…小児科の先生や助産師さんがなにか焦っているように見えました。 会陰の処置が終わると医師から「羊水の中で胎便をしてしまい、汚れた羊水が肺に入ってしまいました。胎便吸引症候群です。今から設備の整った病院に転送します。」と告げられました。 胎児仮死…頭が真っ白になりました。 転送前、あなたがクベースに入る直前にようやく私の腕の中に。ほんの一瞬の対面で離れ離れになりました。 1週間後、ようやく退院した私は、すぐにあなたに会いに行きました。たくさんの管が繋がっている姿を見て、私はボロボロ泣いてしまいました。その後徐々にあなたは回復して、元気に退院できました。呼吸器の障害が心配でしたが、保育園でも活発に成長し、小学校高学年からはバスケットボールを始めました。高校卒業までバスケ部で頑張りましたね。 あなたは決して華やかなプレイヤーではなかったですが、縁の下の力持ち的な存在で、周りのみんなを支えられたのではないかなと思っています。人から与えられるより人に与える方が難しい。あなたはそれができる人に成長してくました。私はそんなあなたがなにより誇りです。 今、あなたは人生の岐路に立たされています。19歳になり、自分の意思で意思決定し未来を見据えた行動を求められています。今この瞬間の判断が人生を大きく変えます。 だから今、頑張ってほしい。逃げずに壁を乗り越えて前に進んでいってほしいです。起こしてしまった失敗や過ちをきちんと受け止めて、落ち込んで、また前を向いてほしいです。生まれたあの日、一生懸命に生きようとしたあの力。体の奥底から目覚めさせほしいです。 そしていつか、あなたが人生を振り返った時に、槇原敬之さんの「僕が1番欲しかったもの」の歌詞みたいに、たくさんの人の笑顔で溢れていてほしいです。あなたはたくさんの人を幸せにできる力があるし、たくさんの人に愛してもらえる人だと思うから…   神奈川県 mikityさん 題名:生きる 子どもへ伝えたい言葉:「今は何も見えなくても、必ず道はひらけるから」

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しましまさん「私の出産レポート」

しましまさん「私の出産レポート」

『3人の子供たちへ。あなたたちのおかげでお母さんは毎日とても楽しいです。これからもたくさん一緒に笑おうね!』 私には8歳娘、5歳息子、2歳息子の3人の子がいます。とにかく3人とも可愛い。ひとりひとりもとても可愛いし、2人ペアで遊んでいても可愛いし、3人で遊んでいてもとにかく可愛い。私の宝物です。私の出産レポートをご紹介します。 1人目の出産は普通分娩。予定日1週間後の朝に破水。慌てて産院に電話して旦那と一緒に病院へ。陣痛が来たのがその日の夕方頃。痛い。とにかく痛い。こんな痛いなんて聞いてない!ブランドバッグとかもう一生いらないから、お金出して無痛分娩にすればよかったと激しく後悔。痛い。夜中になっても産まれない。 なんで子宮口ひらかないの?痛い痛い。立ち会いの旦那にお尻をテニスボールで思いっきり押してもらってなんとか気をまぎらわす。痛い痛い。翌日の日曜日の朝になっても産まれないので、促進剤を打ってもらい、お昼過ぎになんとか3485gの娘を出産。最初の感想は「やっと終わった!本当にお腹にヒトがいた!」でした。可愛い。でも疲れた。本当に疲れた。 私が疲労困憊で処置してもらっている間、旦那は産まれたての娘をずっと抱っこして見つめ合っていたらしい。羨ましい。 今は140センチまで成長した娘。頑固者だけど優しいお姉ちゃん。とにかく可愛い。 2人目はあの痛みが怖くて無痛分娩を決意。予定日の10日前の夜中11時頃、お腹を蹴られた感覚と共に破水。 旦那を起こす。あわてる旦那と冷静な私。3歳になった上の娘が寝ていたので旦那はお留守番して、ひとりで陣痛タクシーで産院へ。夜中2時頃から陣痛5分間隔になって痛みも強くなってきたので麻酔開始。麻酔がちょっと怖い。海老のように背中を丸めて、背中に太い針を刺された。ちくっと痛かった。若干右足が痺れるような?でも陣痛の痛みはすーーっとなくなった。すごい。 体力温存のために寝ようと試みるもさすがに寝れない。ネット小説を読みながらお産が進むのを待つ。リラックスしてたのがよかったのか、あれよあれよとお産が進み、朝7時に2994gの息子を出産。可愛い。旦那の立ち会いができなかったので、即座にスマホで産声の動画撮影。助産師さんと先生は若干あきれてたけど、撮影できてよかった。無痛分娩すごい。 今は110センチに成長した息子。やっぱりお腹を蹴破って破水させただけあって、蹴りが強い。いつもにこにこ。とにかく可愛い。 3人目もやっぱり無痛分娩。予定日の4日前の朝におしるし。そしてその晩の夜中1時頃から陣痛。破水じゃなくて陣痛から始まるのは3人目にして初めて。15分間隔になったところで病院へ電話し、寝てる旦那を起こす。やっぱり慌てる旦那と冷静な私。6歳になった娘と3歳になった息子がいたので、旦那はお留守番。私がしばらく入院になるから、子供たちにひらがなのお手紙を書いて陣痛タクシーで病院へ。 病院に着いてすぐに麻酔。今回はかなりゴッドハンドの先生で、麻酔も全く痛くないし痺れもなし。Twitterの妊婦仲間に励まされながら、リラックスしてのんびり過ごしているうちに子宮口全開。助産師さんにいきんでと言われていきむとぱしゃっと破水。麻酔しててもこのあたりはさすがに痛い。痛い痛い言いながらいきんで3518gの息子を出産。可愛い。やっぱり産声を撮影して先生と助産師さんにあきれられた。 今は90センチに成長した息子。よく食べよく笑う、むちむちの愛され末っ子。とにかく可愛い。 というわけで、私の出産レポートでした。全部昨日のことのように覚えていて、この作文を書くのがとても楽しかったです。今現在、私は仕事から帰る電車の中でこの作文を書いています。毎日子育てと仕事に追われて、気がつけば子供に怒ってばかりいるけれど、やっぱり私は子供たちが大好きです。今回の作文の企画のおかげで、子供たちへの愛しい気持ちを改めて思い出しました。今日は家に帰ったら子供たちを思いっきりハグしようと思います!   神奈川県 しましまさん 題名:私の出産レポート 子どもへ伝えたい言葉:「3人の子供たちへ。あなたたちのおかげでお母さんは毎日とても楽しいです。これからもたくさん一緒に笑おうね!」

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のぐちちえみさん「シローへ」

のぐちちえみさん「シローへ」

『あなたがママのお腹の中にいた頃、パパがつけてくれたシローという胎児ネームがあったのよ。何度もシローと呼んでいたんだけど、覚えているかな?』 覚えているかな? あなたがお腹の中にいた頃、パパとママはあなたのこと、シローと呼んでいたのよ。 なぜ、シローって呼んでいたかって? それはママが大事な人たちからいただいたクマのぬいぐるみが3体ベッドにあって、パパが勝手にタロー、ジロー、サブローと名付けたことにあやかってあなたのことをシローと呼んでいたの(笑) ママは、大きめの子宮筋腫があって、自然妊娠はなかなか難しいかもしれないと言われたにも関わらず、そんなママのところに、シローはコウノトリさんに乗ってきてくれたね。 妊娠がわかって、とても喜んだあの日のこと、今でもよく覚えるよ。 シローはママのお腹の中ですくすくと育ち、いつも体重オーバーで産婦人科の先生から注意されていたね。 ママはあんまり気にしていなかったけど(笑) 妊娠中は、アクティブ妊婦で、シローとママとパパの3人でいろんなところに行ったね。 アクティブすぎて、里帰り先の福岡の産院で、子宮口が柔らかくなっているから、安静に!と言われてしまったね。 実家で横になって、ひたすらテレビを見る毎日を過ごしていると、子宮口も戻り、普通の生活をして大丈夫になったときは、安心したよ。 しかし、ママは、福岡は地元ではないから、両親と妹家族しか知り合いがいないし、福岡と言っても、古賀市という田舎。(古賀市の方々申し訳ありません) 出かけるところもなく、ダラダラする日々を過ごしていたら、今度は子宮口が硬すぎるから動くようにとお達しが出ちゃったよね。 暑い中、実家近くのイオンまで散歩して、蜂がいたー!逃げろー!ってシローをかかえて走って逃げたり、汗だくの中イオンに到着して、スターバックスでフラペチーノを飲んで休憩した日々、とても懐かしいね。 歩けど歩けど、シローがお腹から出てくる気配がなく、気づけば予定日の8月9日まであと数日。 シローの推定体重も4000gを越えていたから、8月7日に促進剤を打つことになったよね。 8月7日の朝は、ルンルンでおばあちゃんと病院に行き、満面の笑みで写真撮ったの覚えているかな? おじいちゃんもおばあちゃんも仕事だったから、ママはシローと2人で、バースプランに書いた嵐の曲を聴きながら、シローのタイミングを待っていたよね。 お昼ご飯の後から、急にお腹が痛くなり、すぐに激痛…これ、どれくらいまで耐えればいいの?いつ助産師さんを呼べばいいの?とママは不安でいっぱいだったよ。 きっとシローもママと一緒にお腹の中で闘っていたよね? ママは我慢強い性格だから、痛みに耐えて耐えて耐え抜いていたら、助産師さんが様子を見にきてくれた頃には子宮口が開いていたよね。 シローがお腹から出てくる前に、おばあちゃんとおばちゃんとにいに(シローのいとこ)がかけつけてくれて、みんなでシローの誕生を待っていたね。 ママがお腹の痛みと闘っているときに、にいにが「赤ちゃんはどこから産まれるの?」と質問してきて、「足!足!」と答えたこと、思い出すと笑っちゃうよね。 そうこうしているうちに、シローもママに会いにお腹の外に出てきてくれたね。 体重は3846gと4000gは超えていなかったけど、パパが横浜から来るまで名前をつけなかったのもあって、助産師さんたちの間では、ビッグベビーちゃんと呼ばれていたね。 今では、シローと呼ぶことはなくなったけど、シローはパパがつけてくれた大事な胎児ネーム。 あなたがもう少し大きくなったら、シローと呼んでいたんだよと伝えるね。   神奈川県 のぐちちえみさん  題名:シローへ 子どもへ伝えたい言葉:「あなたがママのお腹の中にいた頃、パパがつけてくれたシローという胎児ネームがあったのよ。何度もシローと呼んでいたんだけど、覚えているかな?」

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とーちゃんさん「ママと出会えた3日間」

とーちゃんさん「ママと出会えた3日間」

『天国に行って1年 ご飯も沢山食べて大きくなってるかなぁ』   2021年8月23日に男の子を出産し3日後に新生児敗血症で天国に旅立った息子と私のお話です。 私は23歳で多嚢胞性卵巣症候群「排卵障害」と診断を受けて体外受精を選択しました。若くにして体外受精を選択し知識もどんな治療をしていくのかも分からなくて同じ年代でも経験してる人も居なくて、周りの人は授かり婚やすぐに授かったり、なんで私はできないの?なんで排卵してくれないの?友達にも恥ずかしくて相談できなかった。若くして不妊治療することは恥ずかしいことではない子どもを授かりたいから。採卵はすごく痛くて、腹水になり入院することにもなった。可愛い我が子をお腹で育てることができるなら痛くても頑張れた。 運良く胚盤胞移植が1発で成功して念願の妊婦生活、マタニティーマークをつけて外に歩くのがすごく楽しい、悪阻も辛いけど乗り越えられる。どんどん大きくなってくお腹が愛おしく感じた。すごく幸せな生活、不妊治療してる時は辛かったのが嘘だったのかと思うほど。今思うと頑張って不妊治療してる人は妊婦さんは見たくもない存在だったと思う。授かりたくても時間がかかる人は沢山いることを私は知ってるから。 仕事をしながら妊婦生活を送り、8月22日に陣痛が来て20時間かかり8月23日に第一子の男の子を出産。 我が子に会える嬉しさで陣痛が痛くなかった。産まれてオギャーオギャーって泣いてくれた時心の底から涙がでた。立ち会い出産ができて、旦那から産んでくれてありがとうって動画を取りながら言ってくれた。1時間後息子が私と旦那の所に来てくれて一番最初に旦那に抱っこしてもらった。私達家族にとって元気な息子と過ごした最初で最後の時間だった。産まれた日は半日ずっと一緒にいたけど、何していいかも分からない、なんで泣いてるの? 不思議がいっぱいでこれからこんな幸せな毎日が送れることに幸せを感じていた。 オムツ替えや授乳、当たり前に通る日常。私はその日常は極わずかだとこの後知る。 夜になると呼吸が荒くなり、NICUに即入院。 不安で夜中ずっと泣いてた。息子の主治医が来て、「大丈夫です。新生児がたまに起きることです」と安心して、朝を迎えた。 朝一でNICUの息子の元へ 。たくさんの機械が付いていて苦しそうな息子。旦那も来てくれて主治医とのお話し合い。「絶対治ります、死ぬことはありません、呼吸器系の問題」と言われた。ドンドン息子の体調が急変。昼から体には大量な点滴と機械が取り付けられてて、夕方に旦那が呼び出された。 言われた言葉は「急変しすぎてもう治ることはない」一緒に居てあげてくださいと。 息子の望みにかけて声をかけてそばにいた。どんどん落ちていく心拍。余命宣告されてから6時間私の胸の中で息を引き取りました。 これから楽しい人生を健康に産んであげれなかった私のせいだと責めてた。 次の日に退院し、葬儀の準備。私がやりたい事はこんなことではないと涙が止まらなかった。母乳は息子が亡くなったことは分からない出さないと固くて痛すぎる。 周りのみんなも泣いてばっかり、私はみんなを悲しませるために息子を産んだんじゃない。 火葬の日は骨となって私の元に来た息子。今まで抱っこしてた重みではなく軽かった。 外を歩けば子どもや妊婦、笑顔が絶えない家族を見るのが辛い。今でも仕事復帰が難しい。そんな時に天使ママの存在をSNSで知った。同じ思いをした人が沢山いるなんて、息子が亡くならなかったら知らなかった。お腹に宿れば必ず産まれてると思ってた。流産や死産してしまう人も沢山いる。 私は赤ちゃんを亡くしたお母さん、お父さんの心のケアもらとても大切だと思う。社会復帰するのに時間がかかる。人は誰かに話すと心が楽になることを息子のおかげで改めて知ることができた。妊娠出産は命懸けのママと子ども人生のストーリーだと思う。私たち家族の元に産まれてきてくれてありがとう。大好きだよ。   愛知県 とーちゃんさん 題名:ママと出会えた3日間 子どもへ伝えたい言葉:「天国に行って1年 ご飯も沢山食べて大きくなってるかなぁ」

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イソカカさん「16歳になるつむぎへ。」

イソカカさん「16歳になるつむぎへ。」

『あなたが産まれてきてくれたから、ママは強くなれました。』 むぎ、あなたの誕生日が来る前にやっておきたい事がある。10年後のあなたがこれを読んで、どんなにあなたが私を救ってくれたのか、知って欲しい。 今日は2021年9月14日。あなたの6歳の誕生日の前日だよ。あなたはすみっコぐらしのケーキが食べたいと私にねだってきてる。可愛いおねだり、もちろん予約したよ。きっとあなたは明日、にこにこ笑ってママ大好き!と言ってくれる。 2016年の9月14日はね、いいお天気だった。いつも通る鴨川があるでしょう。川がキラキラ輝くのをお母さんは歩きながら眺めてた。産婦人科でよく歩くように、と言われたんだ。あなたがもうすぐ産まれてくる、それが嬉しかった。 あなたがお腹に入っている頃、ママとパパは飲食店をやっていてね、忙しかった。お兄ちゃんを朝保育園に預けて、ギリギリの時間にお迎えして、お客様にご飯を作るのに、家族のご飯は作れない、それくらい疲れちゃう時もあった。 そう、忙しかったから。ママは無理をした。 そんなつもりじゃなかったけど、動きにくい位大きくなったお腹で、いっぱい働いた。そしたら高い熱がでて、病院に入院することになってしまった。あなたの命が危なかった。 お風呂はだめ、トイレのために起き上がるのもだめ、ご飯は寝たまま食べなさいと言われた。 悔しかった。お店をパパに任せて、病院のベットで1日を過ごすのは、前日までの充実した日々との落差が大きすぎた。 こう書くと、もしかしたらあなたは申し訳無い気持ちになってるかな?むぎ、違うの。よく聞いてね。 ママはあなたが生まれたおかげで、受け入れる強さを持てたの。 この力はお母さんの1番最高な誇りなんだ。だからよく知ってほしい。 あなたがどんなに素晴らしいのかを。 負けず嫌いのあなただから、きっとこれまで1番になろうと、運動も勉強もよく頑張ったことでしょう。でももしかして、身体の変化に戸惑ったり、心がなんだかもやもやとして、うまくいかない時があるんじゃない? それはあなたが大人になるのに必要なものだよ。 自分の力だけでどうしようもないことって、この先沢山ある。それはお友達との関係や、社会のあり方だったりする。 自分の事だってうまくコントロールできなくて、人に助けてもらう時がある。ママも助けてもらってきたんだよ。 だけどね、随分長い間、ママはなんでも自分でどうにかしたかった。うまく周りの人にお願い出来なかった。 それが変わったのが、あなたを妊娠してからだった。 自分が動けなくなって、本当に大切にしなきゃいけないものが見えてきた。自分で出来ないからこそ、沢山ありがとうを言葉にするようにした。最初は口だけで、本当は自分がしたいのにって気持ちが溢れてたかもしれない。でも、1番大切なあなたの命を守るために、ママは自分で出来ないことを受け入れたんだよ。そしたらびっくりする位心が穏やかになって、人にありがとうを言えるようになった。 これって、ママの人生を変えた力なんだよ。 受け入れる強さってね、諦めることとは違うんだ。出来ないことを認めて、周りに感謝して頼って、自分に出来ることを精一杯やる。そういう強さだよ。これってね、きっと色んなママたちが、子育ての中で身につける強さなんだ。 こうでありたい。そう思う気持ちは尊いものだよ。でも同時に、今、ここにあるがままのあなたが素晴らしいことを知って欲しい。 あなたが生まれた時の写真がある。ママの顔はお化粧もしてなくて、寝てなくて、でもにっこにこの笑顔なの。お化粧してない顔を写真に撮られるのなんて、ありえない!って思ってたんだ。でも受け入れて、この瞬間を残しておく方が大切だと思った。いつかあなたが生まれた日のことをふと知りたくなった時、どう見たってママは幸せです!!!ってすぐ分かるように。 むぎ、あなたが生まれてきたおかげで、ママは強くなれたよ。ありがとう。お誕生日、おめでとう。   京都府 イソカカさん 題名:16歳になるつむぎへ 子どもへ伝えたい言葉:「あなたが産まれてきてくれたから、ママは強くなれました。」

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  • ■名称

    第1回ぐるっとママ懸賞作文
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    ダイイッカイグルットママケンショウサクブン
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    神奈川県横浜市
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