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第3回「私の子育て」インタビュー 柿谷先生×ぐるっとママ

2019.08.01

「私の子育て」インタビューシリーズ、第3回目は、日本選択理論心理学会会長の柿谷正期先生です。日本に選択理論を広め、カウンセラーでもありながら男の子3人を育てた柿谷先生からのお話はどれも貴重なものばかりです。ぜひ一読いただき、子育ての考え方のヒントとしていただければ嬉しいです。



<柿谷先生の子育て家族構成>
ご本人・妻・長男・二男・三男

 

思い出に残るエピソードを教えてください。

柿谷先生:
夏になると私は島根県出身なのでテントを積んで母に会いに行く。母に会いに行き、帰りは四国一周とか、九州一周とか家族でテントを広げて旅行したというのは思い出に残っていますね。

ただ二番目と三番目の子どもの歳が9年離れているので三番目はテントの体験というのはあまりないかもしれませんが、長男、次男はおそらく記憶にあるでしょうね。三番目の子育ては二番目が助っ人として入ってくる。二番目が三番目を育てたようなものです。お風呂に入れたりとかね。9歳違うと一人っ子という感じですよね。

思い出に残る失敗談。あんまり私、過去にかえらないので。これというのは特に浮かばないですね。仮にあったとしてもいつまでも執着するのではなくてあの時はあれで最善と思ってやったことだと。今は違う情報が入ってきて今は違う状況なので今だったらこうするというのはあったとしてもあの時は自分の持っている知識・技術を全部使って最善と思うことをやっているんですよね。そういう意味では子育てを振り返って失敗談は何ですかと聞かれてもすっと出てこない人もいるだろうし、そして仮に失敗だとしてもあの時はあの決断が最善だったわけです。そういう処理の仕方をするので私が聞かれても失敗談というのはあまりないかな?

 
 
中学の頃の反抗期はどのようでしたか?

柿谷先生:
一番上の子はちょっと反抗期ありましたね。

うちの家庭というのは当時、精神障碍者のためのグループホームをやっていたので家族だけというよりも子ども達にとって知らないお兄さん、お姉さんが我々家族の一員となって生活するというような稀な状況でした。家族だけの生活というようなことはあまりないんですよね。

そして中学卒業したらみんな、アメリカに送ったので。中学までの生活で二番目、三番目は妻も私も選択理論を学んで実践していたので、いくつかのハプニングはあったとしても反抗期らしいものは二番目、三番目にはなかったですね。選択理論を学んだ家庭で良く反抗期がないことを逆に心配する人もいますが、心配は不要です。

ある家庭で父親母親が選択理論を学んで接するようになったら、娘さん二人があるとき、「お父さん、私たち二人、反抗期ないと思うよ」って言ったというんです。つまり抑えつけることをしなければ反抗のしようがないですよね。だから案外早いうちから選択理論を実践している家というのは子どもの反抗期がいつだったろう、あっという間に過ぎてしまったという感じを持たれる方が多いんじゃないでしょうかね。私達もそんな感じでしたね。

3人のうちの一人がちょっと反抗的なことがあったというのはありましたが、うちの家庭状況がちょっと特殊な状況でしたね。

大磯ホームですね(先生の住居に精神障碍者の方を受けいれ共に生活していた)

うつ病と診断される人やら、統合失調症と診断される人やら、人格障害、躁鬱、躁の人もいる。色んな人がいて。

家からよくなって出ていった青年が家に出入りをしていて何かの時に話があるって。それで外で話したいって。外?夜ですよね。それでじゃあ、近くにデニーズがあるからそこで話すか?って。デニーズに行こうとしたらこっちがいいって公園の暗闇に連れていかれるような感じでした。「そっちは行かないよって」言ったら、殴りかかってきてね、髪の毛がすっぽり抜けたりして。そういう事件が起こって。彼は警察に逮捕されました。親にも家庭では暴力をふるったことがあったみたいなんですけれど。

そういう事件がある中で子どもが育っていたので、ひょっとして家はどうしてお父さん、お母さんと子ども達だけという家庭ではないんだろうという思いを持っていた可能性がある。じゃあ、そういう家庭であったら良かったんだろうとは思わないんですね。子どもはあの状況の中で人に対する優しさを身につけたんですよね。

子どもが一度、アメリカで自分の購入した家に部屋がいくつもあるからってシェハウスみたいな使い方をしていた。そこに日本から来た人たちが住んでいました。一人変わった女の人がいたようです。普通だったら、家主さんはそんな人を受け入れないでしょう。でもうちの子は変な人に慣れていたから、その人とも仲良くやっていたみたい。それなりの優しさをあの環境の中で身につけたのだろうと思います。あれはあれでよかったんでしょう。

統合失調症と診断されていたD君という青年がいましてね、やはり統合失調症と診断されたT君。でもT君は普通の統合失調症じゃない。彼は低血糖症だったんです。学校の教師をしていたことがり、統一教会に入って、彼の人生が狂っていくんですね。そこから救出されてそして教員生活をしていたけれど、おかしくなったというのでおそらく血糖値がぐっと下がっている低血糖の状態で普通の生活が出来なかったんでしょうね。病院では統合失調症。それで入院させられてお尻に注射されて母親が会いに行くとぼーっとして体重も増えていく。この子、ここにいたら廃人になってしまうという母親の直感。母親はそういう時強いですね。そこから退院させるんですよ。それでうちの事を何で知ったのか知りませんが、うちに送ってきたんです。それで普通の生活をしていく中で非常に精悍な体つきに変わってきて統合失調症という診断は間違いだろうなというくらい、いい青年になって結婚しました。後に肝硬変か何かを患い亡くなりました。彼は後半は普通の生活をするようになりました。薬漬けの人は普通になるのはなかなか、難しい。薬をどうやって減らしてもらうかという問題もある。D君も癲癇(てんかん)の薬なんかも飲まされていましたが、ある日、脳波を測ってもらったら癲癇の脳波はありませんでした。それも徐々に減らしてもらって少しづつ良くなっていく。

そういう人たちと生活をしていたので長男にとっては彼なりの思いはあったと思います。彼が選択したわけではない。私たちが選択したわけですけど。人が選択したものに対応していくというのは誰にも必要なことですよね。彼はそこで彼なりのものは学んだと思いますね。優しさだろうなあと思いますね。

ご両親の事は相当尊敬されているんでしょうね。

父親はどういう人だって言われたらね、スーパーマンみたいな人ですって。何もかもいろんなことをしているでしょう。今は尊敬してもらっていると感じますが、反抗期の時はやはり見方は違うでしょうね。なんで俺の家はほかと違うって感じ。

すごい経験ですよね。

凄い経験ですよね。選んでもそんな経験は出来ないですよね。
 
 

 
勉強についてはどのようにお考えですか?

柿谷先生:
勉強については勉強しなさいと言うのは言わないようにしていました。

小さいときからですか?
小さいときから。

それでは勉強しないのではないですか?

しないですよね。勉強しなさいと言わないとしないですよね。それも親は見ている。そういう余裕も必要かなと思うんですけど。

全く勉強に触れないわけではなくて例えば、中二の時に神奈川県ではア・テストというのがあったんですよ。結果によってどこの高校に進むかという三者面談があるわけです。私の亡くなった妻の寿美江は小学校一年生からずっと一番だったんですよね。小学校、中学校、高校ずっと一番。中学校卒業してアメリカに行って高校で一番。短大に行って二番とかね。それから、4大に行って大学院に行って。うちの子どもたちが勉強しないのを見ると「なんで私の子なのに勉強しないんだろう?」不思議でね。そのうち「あっ、これは私の遺伝子ではない。夫の遺伝子だ」そうわかってからは、落ち着いたみたいです。(笑)

それでも勉強しろとは仰らなかったのですか?親は勉強しない子供に対して言いたくなるじゃないですか?

あー、それは言いたくなったでしょうね。私のいないところで何言ってたか知りません(笑)特に私は勉強の事で何か、ガミガミ言っているような、そういう情景は思い出さないんですよね。

先生はそのような時、どのように感情をコントロールするのですか? 

勉強は好きでなかったらしないですよね。当然ね。例えば好きな山登りをしろしろといえばおそらく山登り嫌いになりますよね。そういう意味で勉強しなさいと言うのは勉強嫌いの子どもを作るだろうと思っていたし、ただ何も言わないわけじゃなくて。

選択理論学んでからは中二の子に「君は高校どうするの?行きたいの?どの高校に行きたいの?」と聞いて当時大磯に住んでいて近くに大磯高校という県立の、そこに行きたいと。

私の頭の中では大磯高校はかなりレベルが高いから、このままでは行けそうにないだろうなと思うわけですよね。でもそれを口にすると問題になるので「大磯高校行きたいんだ?今の勉強の仕方で大磯高校に入れる?」と聞いたらね、入れそうにないっていうんですよ。それを聞いた後で「お父さんもそう思うよ」って。あとで自分の意見も言って「じゃあ、どうするの?」って言って。

リアリティセラピーでRWDEP。Rはリレーションで関係性良くして、Wはウォンツを聞いてどうしたい、その学校に行きたいかを聞いて、Dはドゥーイングで何をしている、どんな勉強に仕方をしているか。親ですから見ていれば勉強していないのはわかるからそこは別に聞く必要がないと。Eはエバリエーション、自己評価。今の勉強の仕方で高校に入れるの?って聞いたら。「入れない」「お父さんもそう思うよ」自己評価と親の評価が一致している。じゃあ、どうするかでP、プランするわけですよね。そんなやり取りはやったことあります。

彼はプランをどのようにされたんですか?

その時は最初だったから、「今の勉強の仕方では大磯高校に入れない。」「お父さんもそう思うよ。」その時はプランまでいかなかったんですね。
お父さんにして欲しいことがあったらいいなよ、って様子を見ていたらあんまり変化がないので、また関係(R)が良いときに「大磯高校に行きたいって言っていたよね。まだ、そう思っているの?」って聞いたら「まだ思っている」って。「そう・・。今のテレビの見方で大磯高校に入れそう?」そうしたら、「入れない」って。「うーん、お父さんもそう思うよ。」それで今度はプランまで行った方が良いと思ってね、「じゃあ、テレビどうするの?」「うーーーん、うーーーん」考えているんですよね。何も考える必要ない事なのにね。「うーーーん」「お父さん決めてあげようか?」「いい、自分で決める」「じゃあ、どうするの?」って聞いたらね、「じゃあ、見たい番組が終わったらだらだら見ないで切る」「いい考えだねぇ、大人でもだらだら見ちゃうんだよね。テレビ番組制作している人はね、切るんじゃないよ、切るんじゃないよ。この次はもっと面白いから切るんじゃなーい、と。だから切るのって難しいんだよね。でも今度からは見たい番組終わったら切るんだね。いい考えだと思う。いつからするの?」そしたらね、「来学期から。」このあほって言いたくなりますよね。(笑)それは言わずにね。「来学期からやって間に合うのって?」あんまり押し付けていると思ったら身を引いた方が良いのでね。でもこれ君の人生だから君が決める事なんだよって。受験して発表の日に自分の受験番号、そこにあった!!やったー!!っていう感じ、経験してみたいと思わない?一方で、行ったけど、何度見ても自分の番号がない。残念!これも一つの人生だよね。きみが決めるんだよ。

そんな感じで高校受験はしないでアメリカに行きました。うちの子達、みんな。

彼はアメリカに行っても特に勉強好きなわけじゃないですよね。僕は勉強より体を動かすのが好きなんだってね、もう少しでサッカーのプロの選手になるかもしれないくらいやったんですよ。それで走るでしょう、サッカーは。そしたら高校の陸上をしている監督が見てね、「お前、走れ!」一度、800メートルで高校の中で何かの大会があっていつもこの男の子が一番になるっていう子を彼が追い抜いてね、学校中、センセーションを起こしたことがあったんですよ。それで800メートルで取り組めば、ひょっとしてオリンピックも夢でないとかね。それでも陸上は好きでないと。一人で走るわけでしょう。サッカーはチームですからね。

それでね、結婚して自分がどういう仕事に付いたら良いのか、考え始めてね。専攻はスポーツトレーナーとか、理学療法士とか専攻はそうだったのですが、会計士になると。

それで結婚してから夫婦は別々に住んでいたんですね。彼は仕事をLAでやって彼女は京都で仕事をして。それで妊娠したというのがわかって彼が京都に来て彼女は仕事を続け、彼は子育て。子育てをしながら料理を作ったり、子育てをしながら通信で簿記、税理士、公認会計士になる勉強を日本で始めて。

そして彼が会計事務所に勤めることに関心があるんだとわかってから、それではうちに来いってLAのある会計事務所の責任者の方に言われて、今度は向こうに行って彼が仕事をして彼女がLAに行って子育てをする。

彼は仕事をしながらCPAの資格を取ったんですよ。CPAというのはCertified Public Accountant、公認会計士。日本の公認会計士とはちょっと違います。日本の場合は税理士と公認会計士は別。アメリカの場合は公認会計士と税理士を二つともやるような感じです。日本の公認会計士はかなりハードル高いですけれど、アメリカはそれほどでもない。それをとって今はある会社で財務担当のマネージャーをしています。勉強しないでも必要がわかると勉強するんですよね。
 
彼が中学・高校の時、お父さんである先生との関りで得られたものは何ですか?

彼は勉強を強制されなかったことだと思うんですよね。必要になった時に自分で勉強を始めた。

三番目の場合は我々が勉強しなさいと言う必要がなく、一人でやっていました。そして日本に帰って高校で英語を教えたいって言いました。私が高校より大学で教えた方が面白いよ。自由もあるしって。じゃあと言って教えるに必要な修士号をアメリカでとって今、U大学で教えています。彼の場合はアメリカのグラッサークオリティスクールを卒業して日本に帰って仕事をしている。このような人はおそらく彼以外いないんじゃないかと。

まず、グラッサークオリティスクールを出た日本人が少ないですよね。

日本で中3を卒業したら本当は高一ですよね。でも日本の中3というのは向こうの高1なんですよ。日本の6年生はアメリカでは中1です。アメリカの中学校の3年間というのは日本の小学6年生、中学1年生、2年生まで。日本の中3はアメリカでは高1になります。高校4年生まであって、高校を終えるときは両方とも同じ。彼は日本の中3を終えて向こうの中3をもう一回やった。それから高校に進みました。だから一年遅れているというかダブっている。最後の卒業の一つ前の年に校長がインタビューして君はもし、今年卒業したいというんだったら卒業出来る。でもみんなと一緒に来年卒業したいというんならそれもいいと。そしたら息子は卒業したいと。ここは寒すぎると。(笑)ミシガンだったんですね。お兄ちゃんたちがカルフォルニアにいるから自分はそちらに行ってコミュニティカレッジに入りたいと言うので、丁度、日本でみんなが高校を卒業した時に彼も卒業させてもらって。それでコミュニティカレッジは2年間。次に4大に行って。それで大学院に行って。帰ってきて。博士はやっていないから。これは教えながら仕事をしながら博士をとるつもり。

先生の子育てで伝えたいということは押さえつけないという事でしょうか?

今、一人旅で孫が来ています。彼は勉強良くするんですよ。これから、四日市に行くという時に教会の礼拝の後だったのでじゃあね、バイバイって。タイガ君、あんまり勉強しない方がいいよって送り出した。アメリカで小学校に行っている日本人の子は日本語学校という土曜日にやっている学校に行きます。そこでも勉強するんですよ。そこの宿題課題があるので。それをうちに来てもしっかり勉強していましてね。タイガは親にこの次の土曜日、僕は日本にいるからその時の宿題を教えてほしいと。写メ撮ってね。そしたらそれをやるからって。私が勉強するなって言ったのになぁ。ラインのやり取りでね。そこにタイガが加わってきて、「勉強しているよ。グランパの言う通りに。」おかしいな?グランパは勉強するなって言ったのに。そんなやり取りをやりました。

勉強の面白さがわかるとほっておいてもやりますよね。A子さんの育った環境は女の子は勉強しなくていい。昔そんな時代ありましたよね。だからこっそり隠れて勉強する。大学なんてとんでもない。お金なんか出さない。それでも本人は大学受験して自力で大学行くんですよね。「するな、するな、女の子は勉強する必要ない」って言われれば言われるほど、勉強したくなる。そんな感じでね。

まあ、子どもに勉強しなさいっていえば、好きな山登りも嫌いになるのと同じでね。まだ、面白さがわからないのに勉強勉強って言ったらやっぱり好きになれないだろうなあという思いがあるのでね、それは勉強しやすい環境を作ってあげるとか、協力するとか、教えてと言われたら教えてあげるとか。そういうことを親はするべきだと思います。

「宿題はやったの?」とか「あんたがやっていないと親が恥をかく」なんて感じのことはしない方が良い。私なんか、宿題があるのかないのか知らない。やってなかったら学校で困りますよね。今の学校の仕組みの中では恥をかきますよね。その中で彼がどうするかを決めていくんです。恥かいてもいい勉強だと。

あなたの人生だからと。

そうそう。ただね、子育ての中で勉強しなさいと言われたので僕は勉強できるようになりました。という子もたまにいるんですよね。
逆に勉強しなさいしなさいって言われて反抗して勉強もしなかったし、悪い連中とつるんでしまったという人もいるわけですよね。
だから、大切なのは勉強ではなくてね、親と子のしっかりしたつながり。これがあればね、勉強は必要がある時にやるだろうと。

つながりというのはどのように作るのでしょうか?

つながりは選択理論的に言えば、子どもの上質世界に親がしっかり入るということですよね。ど真ん中に入る。親の持っている価値観もそうなると子どもは大切にする。親は何かを言う時にこれを言うと子どもとの距離は縮まるか、遠のくか?と考えて遠のくことは言わない、しない。近くなることをする。そうすると良いつながりが出来る。

勉強について何も言わないのは私自身が満州で生まれ,戦後日本に帰ってくるときには難民だったんですね。ある意味では。私は小さいときの記憶ってないんですけれど、私が疎開して帰ってくるときには私が歩けなかったらおそらく置いて来られたと思う。私の下に妹がいるから、母が妹を前に括り付けて。

何歳の時ですか?

終戦の時が3歳の時なんです。

歩いたんですか?

ですから、4歳か5歳。おそらく引き上げの最後の方だったと思うんですけれどね。歩かなければ帰れない。で私は歩いたというと姉がね、兵隊にならなかったよそのお兄ちゃんが歩けないというと抱っこしてくれたよって言ってましたけど。抱っこされながら歩きながら帰ってきたんですね。

小さいときの思い出がなくてね、小学校に入った時に字が書けなかった。読めなかった。あいうえお,すらわからなかった。今だったら学習障害、発達障害と言われる遅滞のグループに入るだろう。漢字書けない、ひらがな読めないって言ったら、積み木のところに連れて行ってもらって、それも「わーん」て泣いて何もしないで小学校に入れてもらった。終わって友達と家で遊んでいたら、友達に「こいつ、字書けなくてわーんて泣いてたぞ」って。まあ、普通そこからいじめにもなるんですけれど、そんなこと言われても、まあほんとのこと言われただけなんですけれど。ずっと漢字の書き取りも残され、勉強できない状態が小学校低学年までずっとありましたね。そういう人が大学教授になったんだから、大丈夫!。

先生が字が書けないことに対して親はどのようでしたか?

父親は戦争にとられて結果的には戦死なんですよね。帰ってくると期待しながら母親は4人の子を育てるわけです。子どもが手分けをしながら食事つくりをし、皿洗いをやるということをするわけですね。私は小学校の低学年から新聞配達をしたりして。子どもの勉強なんかを親が見る余裕ない。ただふすまのところにあいうえおが書いてあってね、丸がしてある。かきたに。そういうのを時々、やってたみたい。でも何か発達に異常があったんでしょうね。何にも残らなかったですね。今は子どもは保育園でも字書けるし読めるし。本も読める。そんな状態ではなかったですよ。おそらく、ぼーっとしていたんでしょうね。満州から引き上げるというのが、トラウマだったんでしょうね。勉強するようになったのは小学校の4・5年生。算数の時間にわかる人って先生が言ったらほとんどの人が手をあげていたみたいで私も上げていたみたいなんです。そしたら担任の先生が柿谷が手をあげてるってね、はいって、指名した。たまたまあっていたんですよね。答えがね。あの頃から、ちょっと勉強が出来るようになってきた。

もう一つ事件があるんですね。私の推測でね。これで私は勉強するようになったのかな?と思っている。大きな事件があるんです。

私の住んでいる家の隣の隣が同級生で畳屋さん。そこでよく遊んでいたんです。二階に上がって窓から出ると一階の台所の上がトタンだったんです。そんなに傾斜していない。そこに屋内配線が走っていてそこの子が、これ触るとピリッと来るよっていうから、ピリッ位なら試してみよう。屋内配線に触りました。何も来ないじゃない。いや、両方触らないとこないという。それでこちらとこちらを‥するとビリビリきてもう手がくっついて取れない。感電しちゃったんです。本当に取れないですね。両方を握ったから、プラスマイナス。取れないものですか?取れないですよ。小学校低学年というか4年生ですね。取れないですね。手が開けない。大声で泣いて。体全体にびりびりびりーーーという感じですよね。家と畳屋さんの間にある家がね、中国電力の社宅だったんですね。そこにたまたまおじさんが日中なのにいたんですよ。それで走って上がってきて、畳屋さんだから、堀こたつの小さい畳があるでしょう。それを持って上がってきて、トタンの上に置いて自分がそこに乗って一気にばっと引っ張ってくれたので助かった。手はここに穴が開いている。おそらくここから入ったんだろうって言われました。
その方は何でもなかったんですか?

その人はこう引っ張ったから何でもない。あとで聞くとね、そこの男の子が同じことをやったって。感電したんですって。助けてくれた人が同じ人だった。二度目だから要領がわかっていますよね。こたつ用の小さな畳を置いてそれに乗って引っ張ってくれた。電気ショック療法ですかね。それから勉強できるようになったのかもしれない(?)(笑)

そのあとはどうなったのですか?

具合悪かったですね。食事なんかできなかったです。一日くらい。もう少し遅かったら確実に死んでいた。触って離れない中でね。あーこれで私は真っ黒こげになって死んじゃうんだぁ。この隙間から飛び降りたら離れるかな?とか。そんなことや人の顔が走馬灯のように次から次と。その後ね、もう一回やったらもっと頭良くなれるかもしれないという誘惑、、、でも元に戻るかもしれない(笑)

その走馬灯の中に勉強はありましたか?

ないない、勉強なんて走馬灯の中には出てこないですよ。本当に死ぬ瞬間に近づいていましたね。

走馬灯の中に何が出てきましたか?

自分が生きてきた10年くらいでね。記憶の中にあるものはいろんな人の顔が浮かんできてやがて自分はまっ黒けになって落ちて死ぬんだぁ、というような感じでしたね。
やはりあの時に思い出すのは悪い思い出じゃないですね。いい思い出ですね。懐かしい人、優しい人、上質世界って狭かったからね。

よくぞ生きてくださいました。日本の選択理論があったかもなかったかもの瀬戸際でしたね。

そうなんですよ、だから私には私の任務があると思ってますけどね。
 
 
 
 
子育てをやり直せるとしたらいつの時代に戻りたいですか?またそれは何故ですか??
 
柿谷先生:
これは私にはないですね。

まぁ子どもと遊べなかったということもないし。ある時間を使って子どもと関わったし。

ただもう少し早く選択理論を知っていたら長男との関係がね、彼が反抗する思いも反抗する事もなかったかもしれない。次男三男の時は選択理論的な親対応していた。もう少し早く知っていたらっていうのはありますけど。

でも自分の子育てで三人のうちの一人がちょっと反抗的にっていうのも経験としてはそういう経験がないよりはあった方が今の私の取り組みには現実味があるだろうという思いもあるので。

今はどの子ともいい関係が維持できているので、上の子なんかもすごい親思いの優しいとこがあってアメリカに今いるんですけど一年に一度は帰ってきて親の顔を見るぞーっていう思いを持っているみたい。こないだ帰ってきたからいいじゃないかっていうような思いもありますが、、、。9月にまた帰ってくるんですね、その前年は6月ぐらいに帰ってきてますから、帰って親の顔を見てっていうのを一年に一度は考えているような感じなんですね。行為から見るとね。あるいはそんなに長生きしないって思ってるのかもしれない(笑)

親孝行なお子さんですね

今の内だと思ってるのかもね。いつの時代に戻りたいかというのはないですね。
 
 


 
今の子育て中のパパやママにアドバイスをいただけますでしょうか。

柿谷先生:
子育てで色んな問題が起こってきますよね。必死に対応しきゃならない事とかね。でもそういうことを含めてね、子育てを楽しんでもらえたら良いのかな。勉強しないで躍起になって勉強させようとして楽しくないでしょう。あー、うちの子、勉強しない。宿題しないで叱られている。それを楽しむ。うちの子大物になるぞ。そんな余裕があったらいいですけどね。

選択理論を実践する。選択理論そのものは難しいものではないです。かなりシンプルなんですけど実践となると難しいと言われますよね。

子育てをしながら選択理論を実践し、こういう時にはどういう風に選択理論で関わるのかというクリエティブな対応が出来るようになると子育てを楽しみながらできるかなあと思いますね。

子育てをしているということは親が育てられているという事ですから基準になるような選択理論がなければ、おそらく迷うようなことが多いと思います。選択理論という立派な理論を実践していけば、親子関係のほとんどの問題を防げるし、対応できると思うんですね。これは子どもの問題なのか、親の問題なのかの区別をして。

勉強するしないって誰の問題?親の問題ではないんですよね。子どもの問題なんですよね。教師は親御さんに連絡してきてお宅のお子さん、宿題してこないんですが、何とかしてくださいって言ってきてもね、それに乗らない。あー、うちの子、宿題してませんでしたか?私宿題があるのか、ないのかも知りませんでした。でも宿題するかしないかは私の問題ではなくて先生と子どもの問題ですから、宜しくお願いしますって。先生が親を使って宿題をさせようとするのにはのらない方が良い。子どもと教師の問題でしょう。親の問題ではないですよね。でも教師としては親を使って勉強をさせたいというのが出てくるんですよ。教師も学ばなければいけないんですが、親の問題じゃない。教師と子どもの問題だ、と。

先生が今度は学校で叱るじゃないですか?

もし、学校の先生が叱ってしまうんですって言われたらね、叱らない方法ってないですかねぇ‥って。私は叱らない子育て、叱らない教師。いていいと思うんです。世の中はよその子どもを叱る社会にしよう。叱ることが良いことのように言われているでしょう?でも私は叱らない方法で親も教師も子どもに接することが出来ると思う。教師は私は怒っているのではなくて叱っているって、主張する。先生が子どもたちに先生の得意なものって知ってる?って言ったら一人の男の子が「怒る事」とボソッと言った。叱る事なんて子どもは言わないですよ、区別付かない。怒られてる。

先生はそれを聞いただけでブチってきれそうですよね

私は怒っているのではありません、叱っているんです。でも子どもは怒られている、と。学校の先生は叱らない先生は立派な先生ではないと思われている。

私が一度、愛媛県松山市で「叱るって必要ですか?」という演題で講演した時に、教育委員会にもいて今は副校長をしている方が、あれを聴いてほっとしました。叱らない方法を見つければいいんですよねと、言われました。叱る代わりに自己評価を促す。それをやったらね、叱らなくて済むと思う。

自己評価というのは時々書き物で自己評価の高い子、低い子と言って自己肯定感の高い低いと同じ意味でつかわれていることがありますが、それとは違います。この間テレビの見ていた時自己評価という言葉を使いながら、自分を価値あるものと見ているかどうか。自己肯定感の意味で使われていた。自己評価は、自分で良いか悪いか、効果があるかどうかを判断することです。
 

(柿谷先生 この度は貴重なお時間を頂戴し、掲載にご協力して頂き、誠にありがとうございました。)




 

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