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「私の出産」~母から子へ伝えたい言葉~

第1回ぐるっとママ懸賞作文

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もえちゃんママさん「あなたは私のヒーロー」

もえちゃんママさん「あなたは私のヒーロー」

『いつも怒ってばかりでごめんね。そんなママのことをいつも大好き!って抱きしめてくれてありがとう。ママも大好きだよ。』   早く起きなさい!準備しなさーい!! そんな私の怒号で始まるあなたの一日。 あなたは毎日私に怒られてばかりで「ママもえのこと好き?」ってよく聞いてくるよね。 大好きだよ。ぎゅー!って素直にしてあげられたら良いのになんだか照れ臭くてそれができない私。 けどねもえちゃん、覚えていてほしいことがあるの。 私はあなたのことが大好き、そしてあなたは私にとってかけがえのない世界でたった一人のヒーローだってこと。 私の母(ばぁば)は子供が大好きで世話好きで裁縫も料理もとっても上手だった。 地元の関西から離れて関東で働いている私の事をいつも応援してくれていて、結婚が決まった時もとても喜んでくれて、素敵なおばあちゃんになってくれるだろうななんて思ってた。 でもそんなばぁばにがんが見つかり、思い描いていた明るい未来は一瞬にして崩れ去った。 正直もうそんなに長くは生きられないと医師から言われていたけれど、少しでもばぁばの生きる希望になればと働きながら婦人科に通い、薬を飲んだり注射を打ってようやくあなたを授かることができた。 どんな子が生まれてくるかな、名前はどうしようかな、なんて一緒に絵を描いたり服はこれが可愛いかな、なんて言いながら病院のベットで希望に満ち溢れた楽しい話を沢山した。 生まれたらすぐ会えるようにとばぁばと同じ病院に通院し始めた矢先、ばぁばは天国に旅立ってしまった。 あなたを見ることも抱くことも叶わぬまま。 私はその時妊娠9ヶ月だった。 1番の味方だった大好きなばぁばがいなくなって私はもちろん、じぃじや家族皆んな悲しみでいっぱいだった。 毎日泣いて泣いて真っ暗な世界に閉じ込められたような日々だった。 でも1ヶ月後、あなたは元気に生まれて来てくれた。 初めての出産なのに4時間で生まれてきてくれたから関東にいたパパは立ち合えなかったけど、でもそのかわり、分娩室の外で待っていたじぃじが生まれて間もないあなたを抱っこしてくれた。 毎日毎日泣いていたじぃじの久しぶりの笑顔を見ることができた。 あなたが生まれた瞬間、私達の真っ暗だった世界にとっても明るい綺麗な一輪の華が咲いた。 あなたが生まれてからの日々は初めてのことだらけでとっても忙しく悲しさなんて感じる暇さえ与えてくれなかった。 じぃじや親戚、皆んなであなたのお世話をしてあなたの笑顔や可愛い泣き声に癒され、皆んなはまた明るい日常を取り戻すことができた。 今は3人姉弟の一番お姉さん。 下の子二人の世話に追われて、寂しい思いをさせてしまってごめんね。 「家族の中で誰が一番好き?」と尋ねるあなたに「皆んな大好き!」と答えると不満そうなあなた。 でもね、私のヒーローはあなただけ。 真っ暗で悲しみに溢れた世界から私達家族を救いだしてくれた、世界でたった一人のヒーロー。 あなたは笑顔や泣き声でぽっかり空いた心の穴を埋めてくれた。 私に将来の夢を与えてくれた。 じぃじに生きる希望を与えてくれた。 本当にありがとう。 あなたはばぁばに会うことはできなかったけど、ばぁばはプレゼントを置いていってくれたよ。 そう、それはあなたの名前。 人生で一番最初にもらう素敵なプレゼント。 萠ゆる華のような素敵な人生を。 萠華、生まれて来てくれてありがとう。 私の夢はあなたの子供のお世話をすること。 初めての子育ては大変で、ばぁばがいてくれたらなと思うことが沢山あったから、私はあなたにそんな思いさせないように頑張って長生きするね。 あの日からもうすぐ7年。 今までもそしてこれからもあなたは私にとって、私達家族にとって、世界でたった一人のヒーローだよ。 悲しみから救ってくれて、ありがとう。 生きる希望を、ありがとう。 生まれてきてくれて、ありがとう。   神奈川県 もえちゃんママさん 題名:あなたは私のヒーロー 子どもへ伝えたい言葉:「いつも怒ってばかりでごめんね。そんなママのことをいつも大好き!って抱きしめてくれてありがとう。ママも大好きだよ。」

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岸千尋さん「大絶叫の中のありがとう」

岸千尋さん「大絶叫の中のありがとう」

『あなたが生まれてきてくれたから、お母さんは心からありがとうが伝えられました。』   幼稚園で働いていた20代。 毎月のイベントでお誕生日会があり、子どもたちは自分の誕生月を楽しみに待っている。 お誕生日会当日の子ども達は、髪型を可愛くしてもらったり、はにかむような表情をみせてくれたり、その一つ一つの姿がとっても可愛くて、私も毎月楽しみだった。 おめでとう!ありがとう!が飛び交う日。 でも、本当にありがとうを伝える相手は…?と、職員間で話し合った時、お家の方を1日招待し大切な日を一緒に過ごしてもらおう!となった。 そして、お子さんの好きなところ、生まれてきたときのこと、名前の由来など、みんなの前でお話ししてもらおうと。 生まれてきてくれてありがとう。 産んでくれてありがとう。 この時間がとてもあたたかく、時にみんなで涙を流したことを現場を離れた今でも思い出します。   当時の私は、まだ独身でお母さんってすごい!こんなに一人一人のエピソードが300人近く…と、圧倒されるばかりでした。 将来の自分はどうなるんだろう? そんなことを考えていました。 教え子たちに【お家の方にありがとうを!】と伝えているくせに、肝心な私は恥ずかしくて言えずにいました。   そんな私も7年前、長男を迎えることに。 陣痛が始まった。と連絡すると、両親が駆けつけてくれました。 分娩台に移動する際にお母さんもどうぞ〜!と母も、急遽立ち会ってもらうことに!!! 子宮口最大で分娩台に乗ったので もうお願い〜!痛い〜!辛い〜!産むのやめる〜!一回休みたい〜!と、苦しく、もがき弱音を吐きながら涙を流していると、しっかり!と母が手を握ってくれました。 その手があたたかく、どれだけのパワーが伝わってきたか!! おかーさーん! 母になる直前に、おかーさーん!と叫ぶ私。 陣痛の間の息継ぎしている間に途切れつつも お母さんも こんなに大変だったのーー?? と絶叫しながら聞くと   母は涙目で、そうだよ!! 3回も味わったんだから!!の答え。   こんなに苦しい中、産んでくれたんだ!と思ったら、その時に改めて実感し、お母さん!ありがとうーーー!!と叫びながら、私はお母さんになりました。 両親がいたから、今の私がいる。 大変な思いをして産んでくれた母と、厳しくもいつも遊んでくれていた父を思うと、自分を大切にしようと思えます。 子どもたちを大切に育てようと強くなれた初めての日でした。 お母さんにしてくれてありがとう。 生まれてきてくれてありがとう。 大切な気持ちを教えてくれてありがとう。 そして来春、母と同じように3人目の出産に挑みます。   神奈川県 岸千尋さん 題名:大絶叫の中のありがとう 子どもへ伝えたい言葉:「あなたが生まれてきてくれたから、お母さんは心からありがとうが伝えられました。」

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菜々子さん「最愛の君へ」

菜々子さん「最愛の君へ」

『月並みだけど、産まれてきてくれてありがとう。 いつか読んでくれたら嬉しいな。正直な気持ちです。』   か細い声で泣いた後、助産師さんがお腹の上に乗せてくれたのが初対面。 「うわさでは感動するはずだけど・・・何も感じないのは疲れているせいかな・・・」とぼんやり考えていた。 産んだら母性が湧き出てくるのだと思っていたけれど、全くだったのよ。 君がお腹の中にいると分かった時から「最高の子育て」をすべく何十冊も育児本を読み、夜泣きやイヤイヤ期などへの対応も頭に叩き込んで、あらゆる育児アイテムを揃え、準備は万端。 素敵な産院で優しい夫が見守る中、痛みも少ない無痛分娩で愛しい我が子と対面だ!と思っていてね。 予想は見事に外れたよ。 明け方の陣痛で麻酔医が不在。無痛どころか激痛で、後半は記憶がないくらいだった。 退院後は家事と仕事と、これまた想定外の夫不在のワンオペ育児。 そして一番の想定外は「愛おしい」が生まれない自分の心。 数時間ごとの授乳、昼夜問わずの泣き声、病気がちな君、眠れない日々。想像上は「楽勝」だったけれど、とんでもなかった。 「母親として生きていくって何て辛いんだ、『母性が湧き出る方法』なんて本には書いてなかったし・・・私は子育てが苦手なのか・・・どうしよう、ちゃんと育てられるのかな・・・」と真っ暗な迷路に迷い込んでしまった。 でも結論から言えば全くの杞憂に終わって、必死に育てているうちに不思議と君の仕草や寝顔、屈託のない笑顔の虜になってしまったよ。 そして六ヶ月が過ぎ、またまた予想だにしない事態。 君は生まれつきの障害で手術する事になった。原因の一つは妊娠中の食事の偏りだった。 手術室に運ばれていく小さな体、術後の痛みで泣く君の声に、申し訳ない気持ちでいっぱいで。 手術は成功し無事退院できたけど、その出来事で思い知らされた。 君の体の全ては、私が食べるものから作られていたんだと。 そして君の命の安全はもちろん、心の健やかな成長も私に懸かっているんだという事。考えてみれば当たり前なんだけど。 「これは責任重大だ!しっかりしなきゃ。この子を絶対に幸せにしたい。」と思ったの。 それ以降も相変わらず「育児が苦手」な事に変わりなかったけれど、君と一緒にたくさん学んで共に成長しているんだと感じたし、何より君がいてくれる事で寝顔や笑顔に癒され、頑張れているよ。 私の価値観も大きく変わってね、正直に言うと、君が生まれる前は100年後の事なんてあまり真剣に考えていなかった。 でも今は気付くと、100年、200年先の未来に思いを馳せている。 色々な世界危機が現実のものになりつつある今、私は大人として何ができるだろうか。 君が活躍している未来の地球が、幸せで満ちている世界であって欲しい。そのために何が遺せるだろうか、と。 君の寝息を聞きながら今も考えていて、もはやそれが生きる原動力になっているよ。 毎日唇を尖らせては私を困らせ、毎晩「ママ大好きよ」とささやいてくれる君へ。 もう耳たこだと思うけど、ママは頑張るからね。大好きよ。ありがとう。   東京都 菜々子さん 題名:最愛の君へ 子どもへ伝えたい言葉:「月並みだけど、産まれてきてくれてありがとう。 いつか読んでくれたら嬉しいな。正直な気持ちです。」

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N.Tさん「毎日、泣きたくなるほど」

N.Tさん「毎日、泣きたくなるほど」

『あなたたちがいる毎日は、妊娠する前に想像していたよりもずっと大変で、それ以上に幸せで、大切な時間です。』   私には三歳と一歳の二人の子どもがいる。 この春からワーキングマザーとして仕事に復帰した。 日々「一日が三十時間くらいあれば良いのに!」と現実離れしたことを考えながら、よくある日々を慌ただしくも楽しく過ごすことができているのは、間違いなく家族の協力と子どもたちの存在があってこそである。 今はまだ幼く、母親の私が何を考え、二人に何を願っているのかを直接伝えることは難しい。なので、二人に向けた手紙として、今の思いを残しておこうと思う。        子どもたちへ いつかあなたたちに、「自分が生まれるときってどんな風だったの?」と聞かれたら、「あなたたちは二人ともお父さんとお母さんが願って、願って、体外受精でようやく授かることができた奇跡だよ!」と素直に伝えようと決めている。 昔から子どもが好きで、結婚したら子どもを授かることが理想だった私(お母さん)は、結婚して三年近く、その理想を叶えられず毎日のように泣いていた。  自分よりも後に結婚した友人や、芸能人のおめでたの話題を耳にする度、整理できない感情に苛まれ、その負の感情を夫にぶつけてばかり。 誰かと比べるものではないと頭では分かっていても、妊娠できないことを知る度に、自分自身が否定されている気分になってしまったのだ。 (今考えると夫も災難だったな・・と反省している。) このままでは、せっかく家族になりたいと思った夫との関係も壊れてしまう、そう思って本格的な不妊治療を始めたのが結婚二年目。 それでも明確な不妊の原因は解明できず、初期の治療では残念ながら授かることができずに、治療のステップは上がっていった。  ついに体外受精へ進むことになった時、私の中にあったのは「これで結果がでなければ、私たちは一生子どもができないのかもしれない」、という諦めの混じった冷静な感情だったのを覚えている。 度重なる通院による遅刻早退、服薬、自己注射・・・会社の化粧室で注射をする時間はとてつもない緊張感だった。 それでも、“赤ちゃんに会えるかもしれない”という期待だけで、注射の内出血も採卵の全身麻酔による副作用も気にならなかった。 二回目の移植でお姉ちゃんの妊娠が判明した日、医師からの説明を聞きながら全身の力が抜けたあの感覚は、今も鮮明に思い出すことができる。 それは妊娠周期を重ねるごとに喜びになり、出産当日、産声を聞いた瞬間、痛みも疲れも一瞬消えてしまうほど“可愛い”という感情で胸が一杯になった。 お姉ちゃんが無事に生まれ、数ヶ月が経つ頃には、早くも自分の中で“凍結していた受精卵で再度体外受精をする”ことを決めていた。 一人目でこんなにも私も周りも喜びに満ちているのであれば、家族が増えたらきっともっと幸せだ、とシンプルに思えたからだ。 幸運なことに再び授かることができ、昨年、私たちは四人家族になった。 「子どもは授かりものだから」「まだ若いし、そんなに焦らなくても」不妊治療をすると、色んな声が聞こえてくる。 子どもの有無が幸せの基準ではないし、経済的な負担も決して軽くはない。でも、周りの声が私を幸せにしてくれる訳ではない。 私たちは自分の意思で不妊治療をすると決めたからあなたたち二人の親になることができ、今が幸せだと胸を張って言える。 と言いつつも、現実はそれほど綺麗ではなく、大声で怒る朝や、一切の気力を失う夜も毎日のようにある。 それでも、あなたたちの楽しそうな笑顔や拙いお喋り、穏やかな寝顔を見られるだけで、何があっても頑張ろうと思えるのだ。 親になり、報道で目にする子どもの悲しい事件や事故の話題が他人事ではなくなり、見る度に胸が苦しくなる。 ありふれた、ごく当たり前の日常は、思ったよりも脆く、明日が約束された未来ではない。 泣きたくなるほどの“普通の”幸せをくれる二人に。 私たちを親にしてくれてありがとう。二人と過ごす毎日が、幸せだよ。   東京都 N.Tさん 題名:毎日、泣きたくなるほど 子どもへ伝えたい言葉:「あなたたちがいる毎日は、妊娠する前に想像していたよりもずっと大変で、それ以上に幸せで、大切な時間です。」

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金後葵美子さん「8歳になったきみへ」

金後葵美子さん「8歳になったきみへ」

『お母さんを選んでくれてありがとう』   東京で生まれ育った母ちゃんと、広島で生まれ育った父ちゃんは、東京の会社で出会いました。 母ちゃんから声をかけて始まった交際。4年間の交際を経て、東日本大震災のあった2011年に広島へ引っ越し、そして結婚しました。 しばらくは、母ちゃんもお仕事をしました。 そして2年経った頃に「そろそろ赤ちゃんを迎えよう」と父ちゃんと話して妊活を始めましたが、その頃の母ちゃんはお仕事で帰りが遅く、体の調子がよくなかったのもあって、なかなか赤ちゃんが来てくれませんでした。 そこで父ちゃんと話し合ってお仕事を辞めると、3ヶ月後に赤ちゃんがお腹にいることが分かりました。 それが彩華、あなたです。エコーに映ったあなたを見たら本当に嬉しくて、父ちゃんにも直ぐに報告しました。 初めはつわりで気持ち悪さもありましたが、父ちゃんの協力もあって無事に出産の日を迎えることができました。 ちょうど日付が変わる夜中にお腹の痛みを感じ、痛みの間隔が5分くらいだったので直ぐに病院へ連絡しました。 その時は、母ちゃんはババのお家でお世話になってて、父ちゃんは西条の自宅にいたので、直ぐに父ちゃんへ電話してババの家に来るようお願いしました。 それから父ちゃんと車で病院へ行きましたが、お腹が痛くて受付へ歩くのもやっとでした。 初めは順調に開いていた子宮口も、最後の1センチがなかなか開かず、母ちゃんはあまりのお腹の痛さに泣き叫びました。 その声が病院中に響いていたようで、翌日噂されてるのを耳にしてちょっと恥ずかしかったです。 父ちゃんもどうしたら良いか分からず、看護師さんに言われるまま母ちゃんの背中をさすってました。 夜中に始まった陣痛も気づけばお昼。 ようやく分娩室へ移動したものの、なかなか彩華は出て来なくて、母ちゃんも体力をかなり消耗していました。 最後は助産師さんにお腹を押され、やっと彩華が出てきました。 小さな小さな彩華が腕の中に来た時は、無事に生まれてくれことにホッとしました。 父ちゃんも、差し出した指を彩華が握ってくれたことに感動して、涙が出たと言っていました。 彩華の名前は、父ちゃんと母ちゃんの2人で考えました。 彩のある華やかな人生を歩んでほしい、そんな願いを込めました。 もうとにかく可愛くて可愛くて。 父ちゃんが引くくらい、母ちゃんは彩華を可愛がりました。 ですが、昼間はたくさん寝るのに、夜はずっと起きていた彩華。母ちゃんは睡眠不足でとても辛かったです。 本当は可愛くて、とっても大切で大好きなのに、なかなか泣き止まないあなたに何もしてあげられない自分が情けなくて、不甲斐なくて。 ある日、泣いているあなたの顔を見て、ついに小さなあなたのほっぺを叩いてしまいました。 それから母ちゃんは、あなたが泣くと叩くようになってしまいました。 時には顔や体にアザができることもありました。 父ちゃんは「このままでは家族が危ない」と思い、母ちゃんを助けるために料理をするようになりました。 初めて作ってくれたのが、週末のお昼のチャーハン。それから段々と料理の腕が上がって、今では何でも上手に作ってくれます。 父ちゃんに感謝です。 母ちゃんもこのままではダメだと思って、色んな勉強をしました。 痛い思いをさせて、怖い思いをさせて本当にごめんね。 母ちゃんは、何度も母ちゃんを止めたいと思いました。 もっと優しくてあなたを大切にしてくれる人に育ててもらった方が良いとも思いました。 でも、できなかった。 あなたの屈託のない笑顔、すやすやと眠る姿を見ると、あなたとずっと一緒にいたい、最後まで成長をしっかり見届けたい、そう思い直して、今日まで母ちゃんを続けることができてます。 母ちゃんを選んで生まれてきてくれてありがとう。 いつも助けてくれてありがとう。 これからもずっと母ちゃんでいさせてください。 心より愛する娘へ、母より。   広島県 金後葵美子さん 題名:8歳になったきみへ 子どもへ伝えたい言葉:「お母さんを選んでくれてありがとう」

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みいるさん「有難いもの」

みいるさん「有難いもの」

『妊娠→出産まで、何一つ当たり前に進んだものは無く、全てが有難いもの。あなたがいる、それだけでとてもありがたい毎日です。』   みいちゃんは安産タイプだね。 初めて言われたのは小学校6年生の時だった。体が大きく、滅多に風邪も引かない健康優良児だった私。 その後39歳で妊娠するまでの間、何度も同じセリフを違う人から言われた。妊娠出産なんて当たり前に出来るものだと長い間思い込んでいた。 妊娠8週目を迎える頃、診察時に小さな黒い袋の様な影が二つ見えた。 「切迫流産の可能性があります。今日から家で絶対安静にして下さい。」 先生から予想外の診断を下され、頭の中は真っ白になった。 狼狽える私に、「子供の命がかかってるんだから!しっかりして、お母さん!」と先生は喝を入れた。 私にはお腹の子供の様子は分からない、見ることも出来ない。 でも、私はこの子のお母さんだ。出来ることは今すぐ家に帰り、只管寝ることしかないんだ。 4週間の絶対安静により、何とか切迫流産の危機を乗り越えることが出来た。 しかし、妊娠後期に突入するとすぐに切迫早産により再び寝たまま生活に突入することになった。 ただ、妊娠初期の寝たまま生活とは違い、お腹にはずっしりと子供の重みを感じ、勢いよく蹴る音や、謎の携帯バイブ着信の様なものがお腹に響いて大分賑やかなものになった。 私は妊婦期間の約3分の1を寝たまま過ごした。 母親学級に参加することも、妊婦雑誌に載っていた出産前にやりたいことリストも殆どしなかった。 しかし、そんな私でも人一倍したことは祈ることだった。 私は安産タイプと言われながらも、なかなか子供を授かることは出来なかった。 30代前半で結婚した当初、私は専門職として働き、終電帰りや休日出勤をこなす毎日。 体は丈夫な方だった為、子供はいつか出来るだろうと悠長に構えていた。 しかし、35歳を過ぎた頃から子供を望むなら今の生活を変えるべきだと夫と話し合い、私は転職し、不妊治療を始めることになった。 生活を変えたからといって必ず妊娠出来るわけではない。検査で私達夫婦は何も問題無いと判断されているのに、受精卵が育たない。 携帯ゲームと違って、いくら課金しても受精卵が強くなるわけではない。 そんな中、唯一育ってくれたのが、今の息子であった。 私にとって妊娠は奇跡だ。 もっと言ってしまえば、今私が生きていること自体が奇跡だ。 私は寝たままの姿勢で毎日祈り続けた。 今、私が生きていること、そしてお腹の中で子供が生きていることに感謝した。 「どうかこの子が無事に生まれて元気に、幸せに育ちますように。どうか私の奇跡も全てこの子に与えて下さい。お腹の子供に奇跡が起こり続けますように。」 私には祈ることしか出来なかった。 そして、私は元気に育った息子の姿を想像する。 そしてその想像はついには反抗期まで迎えてしまう。 そんなことを繰り返しながら、私はついに正産期を迎えることが出来た。 出産後、私は出血多量ですぐに処置が必要なった。 息子はすぐに保育器の中に入り、産後3日目にようやく息子を抱くことが出来た。 「よく頑張ったね。産まれてきてくれてありがとう。」 妊娠するまで、そして妊娠してからも何一つ当たり前に、順調に進んだものは無かった。 しかし息子はそんな中でも頑張って生まれて来てくれた。 本当にありがとう。 そして、これからもずっと、毎日あなたにありがとうと言わせてと願った。 あれから4年が経ち、私達は奇跡的に元気に過ごしている。 毎日寝顔に向かって「生まれてきてくれてありがとう」という瞬間、私はいつも世界一の幸せ者であることに気付く。 願わくば、息子にも私に負けないくらい幸せになって欲しい。 4歳になった息子はやんちゃ盛りだが、反抗期はまだ当分来ないようだ。 いつか反抗期が来て、息子が「誰が産んでくれなんて頼んだんだよ!」なんて言ったら、寝ながら想像したあの時を思い出してこう言おう。 「私があんたを産ませて下さいって毎日頼んだんだよ!」   東京都 みいるさん 題名:有難いもの 子どもへ伝えたい言葉:「妊娠→出産まで、何一つ当たり前に進んだものは無く、全てが有難いもの。あなたがいる、それだけでとてもありがたい毎日です。」

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Yumikoさん「最高の誕生日プレゼント」

Yumikoさん「最高の誕生日プレゼント」

『どこにいても何をしていても、ママもパパもあなたのことが大好き。』   予定日は2021年の4月後半。 まだ1ヶ月も先の事だし、明日もお散歩でもしてゆっくり過ごそう。そう思って眠りについた夜、腰が猛烈に痛くて深夜に何度も目を覚ました。 立ち上がれないくらいの痛みが定期的にくるので、これはおかしい・・と思い痛みの間隔を測ってみると15分間隔。おしるしなのか、出血もあった。 もしかしてこれは陣痛かも?と思い、早朝に病院に電話をした。 「すぐに来てください!!」と言われ、急いで車で病院へ。 検査をしてもらうと子宮口がかなり開いていて、切迫早産で緊急入院になるとのこと。 心の準備も入院グッズも準備は出来ていない・・。そんな状態での入院生活が始まった。 コロナ禍で病室には家族ですら入れない。パパは駐在でシンガポールにいて日本との行き来は出来ない状況。 もうすぐキミに会える嬉しい気持ちと、少しでもお腹の中で長く過ごさせてあげなきゃいけないっていう不安な気持ち、パパにいつ会えるのか分からなくて寂しい気持ち。 寝たきり生活で体も痛くて、辛くて辛くて毎日涙がとまらなかった。 ママが泣いている時、お腹を触るといつも可愛いキックで返してくれていたよね。 「ママ頑張れ!ボクがいるから大丈夫だよ〜」ってお腹の中からエールを送ってくれてありがとう。 緊急入院になってから1週間経った日の深夜0時。 突然息が出来なくなるくらい体中が痛くなって、ナースコールを何度何度も押した。子宮口は既に全開。すぐに分娩室に運ばれて、あれよあれよとお産の準備が進む。 陣痛の波が和らいだタイミングで、優しい助産師さんが「旦那さんやご家族にビデオ電話繋いでいても大丈夫ですからね〜」と言ってくれて、一応電話をかけてみる。予定日より1ヶ月も前の突然のお産。深夜1時、夫も父も母も弟ももちろん電話には出ない・・ 私はマスクの下で唇を噛み締めながら、優しい助産師さんとお医者さんとお腹の赤ちゃんと共にこの出産を乗り越える決意を固めた。 2021年3月30日。新しい命が誕生した。明日は私の誕生日。 シンガポールに住んでいるパパがママの誕生日にあわせて送ってくれた素敵なお花が病室を彩る。病室から見える桜達もキミの誕生を一緒にお祝いしてくれているみたい。 ママはこれからキミと一緒にパパの所に行く準備。大好きだったお仕事も辞めて、キミと共に新しい人生を始める。ママも初めての海外生活でドキドキするよ。だけど、キミと一緒ならきっと大丈夫。 どこに居ても何をしていても、ママもパパもあなたのことが大好き。 沢山の愛を感じながら、充実した人生を送ってくれることをいつも願っているよ。   シンガポール Yumikoさん 題名:最高の誕生日プレゼント 子どもへ伝えたい言葉:「どこにいても何をしていても、ママもパパもあなたのことが大好き。」

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林 かおりさん「4回目の出産で何を思ったか」

林 かおりさん「4回目の出産で何を思ったか」

『3人の太郎へ』   診察室にいた。 どんな病気でどんな手術をするのか医師の説明を聞く。 「子宮頸がん初期、高度異形成」さほど珍しい病気ではない。 がん細胞の転移を食い止めるために子宮の全摘をお勧めされたのだ。 開腹手術なのかと思ったら、膣から産み落とすように子宮を取り出すとのこと。 私は少し悲しい気持ちになった。 なんか「4回目の出産」みたいだなあと思った。  簡単な手術とはいっても、命を落とすこともあり得る。 3年前、私は3人の息子たちに、以下のことを言い残した。 三人の息子たちは、現在、29歳、27歳、25歳である。 【3人の太郎へ】 ありきたりな言葉だが、お母さんはあなたたちが生まれてきてくれたことに、とても感謝している。 この世に生まれてきたことは、お父さんとお母さんの命の結合! 簡単なことではなかったが、天文学的な確率で生まれることができたのだから、必然ともいえる。 あの時の感動と歓びを本当にありがとう。 そして3人にお詫びしたいことがある。 この場を借りて伝えておこう。 お詫びは感謝の気持ちに等しいのだが。  長男 遼太郎へ お母さんは臨月まで仕事を頑張りすぎて、君にちょっぴり負担をかけてしまった。 最後まで逆子で、産まれてくときはへその緒が首に巻き付き、苦しい思いをさせてしまった。 無事に生まれてきた時はほっとした。  2歳から兄としてしっかりしろとお父さんのスパルタもすごかった。 プレッシャーも大きかったことだろう。 真っ直ぐ育ってくれてありがとう。  二男 伸太郎へ 君は生まれてすぐおっぱい飲むのが上手で成長が素晴らしかった。 笑顔が可愛くて、手もかからない子だった。 3歳の時、お母さんは赤ちゃんの晃太郎を気にして君の手を放してしまった。 目の前でトラックにかき消されたその絶望の瞬間、今思い出しても涙が出る。 血だらけになりながらお母さんの名前を呼んでいた伸太郎。 可哀そうに、痛くて怖い思いをさせてしまった。 あなたの命を私が消してしまうところだった。 本当にごめんね。 そして生きていてくれて本当にありがとう。  三男 晃太郎へ 小さく生まれて大きくなるかと思ったら、早生まれのせいか少しハンデがあったね。 甘やかしすぎてしまったのかな? 高校の時の狂言なのか本気なのかわからないあの自殺未遂。 お母さんはとてもショックで大泣きしたけれど、辛い気持ちに気づいてあげることができなくて、ごめんね。 お母さんは命の尊さを君に教えていなかったのかな。 でも、立ち直ってくれて本当にありがとう。 手術は無事に終わった。 「4回目の出産」で子宮を産み落としたことに喪失感はなく、自分なりに女性としての新たなスタートだと思った。 私は、もう妊娠、出産はできないが、ちょっぴり先輩ママとして、頑張る若いお母さんたちを応援していきたい。  妊娠し出産を経て誕生した尊い命を守っていくことは、個人だけではなくみんなの責務だと思うから。   埼玉県 林かおりさん 題名:4回目の出産で何を思ったか 子どもへ伝えたい言葉:「3人の太郎へ」

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あっちゃんさん「最愛の長男へ。ママが伝えたいこと。」

あっちゃんさん「最愛の長男へ。ママが伝えたいこと...

『自分は強くて優しい母親になれると そう思っていたし、自信があった。 なにより母親になることが、 夢であり私の目標であった。 実際に経験して... 思った以上に辛くて、涙も出て、 悔しくて。 でもそれだけじゃなく、 知る事、学ぶ事が沢山だった。 そんな経験をさせてくれた 私の愛する長男に私の想いを届けます』 人は限界が来たり余裕がないと 壊れるんだと知った。 ある朝、私は次男に添い寝で授乳をしていて、そこに長男が私の側にやってきた。 何度かやり取りをしたが、おそらく長男はママが自分の方に向いてほしいと思っていたのだろう。 でも、それに向き合うことが出来ず、いい加減にして!と私は手を上げてしまった。 大泣きする長男。 ハッ!として見た光景は、顔に傷を残してしまった。 ごめんなさい。 どうしよう。 そればかり唱えていた。 妊娠を知った時の私は、夫と泣いて喜んだのを今でも鮮明に覚えている。 変わっていく自分の身体。嬉しくて幸せでたまらなかった。 健診に行くのも楽しみで初期の時は、月に一回の健診で大丈夫なのかと心配になった。大切な命だから。 初めてお腹の中胎動を感じた時は感動して泣いた。 私がお腹を叩けば、あなたは叩き返してくれることもあったよね。 指折り数え、会えるのをどんなに楽しみにしていたか。 出産までの道のりは平坦ではなくトラブルもあり、色々な検査をしなくてはいけなくなることもあった。 痛いことも沢山、苦しいこともあった。 いざ、予定日になっても出産の傾向はなく、子宮を刺激する為に処置をしたり、もっと運動しろと言われた。 予定日から一週間位遅れた日、破水から私の出産は始まった。 尿意とは違う感じの生温かい感じで破水。しかし陣痛はついてこず、丸2日間病院で出産が始まるのを待った。 進まない出産。スクワットしたり、こんなことをして体力は続くのか?と思うほど。 いざ陣痛が始まり、夫の立会いのもと出産に望む。 今まで感じたことのない痛みに、もう、殺してくれと何度思ったか。 隣にいる夫の腕を掴んでつねって引っ掻いて。 今でもその傷は彼の手に残っている。もう、本当に無我夢中でした。 想像していたものと遥かに違うこの感覚に汗をかき泣きそうになり苦しくもがきながら。 病院に響き渡る赤ちゃんの心拍の音。 息むと弱まり。後で分かったことはへその緒が胎児の首に絡まっていたとのこと。 赤ちゃんの心拍は早いはずなのに どんどん遅くなり時折り止まりかけた拍動。 最後のいきみをしたくてもできず、そこにいた看護師さんが私のお腹を押して私の上に二人くらい乗っかって。 意識も朦朧とながら何かがスルッと出てきたように感じた。 ドラマの出産シーンとは違って赤ちゃんが泣かず。唇も真っ青になってる。 駄目だったんだ。そう思った。 管を突っ込まれて処置を受ける我が子。 処置から何分たったんだろう、かなりの長い時間に感じた。 少し立ってからか細い声で 赤ちゃんが泣いた。 ホッとした。 そこから会えたのは出産の処置を終えてからだった。 赤ちゃんの顔を見て、こんなに愛おしいものがあるんだ。 私より大切で守りたい命がここにあった。 産まれてきてくれてありがとう。 私をお母さんにしてくれてありがとう。 出産後は順調に育ってくれた長男。愛おしい息子との幸せな毎日。 だけど次男が生まれてから、お兄ちゃんだからと、私が若いだけにあの時は、君の気持ちに向き合いきれずいつも寂しいって思わせてたのかな。 もっと甘えたかったし甘えたい歳だったよね。 あの時は、一瞬の出来事で傷を負わさてしまった事、それが今でも私の胸の中に深く傷として残っている。 謝っても謝りきれない。その傷がまだ残ってるのは、母親としての傷なのかもしれない。 決して忘れちゃいけない。 でもね、これだけは言える。 私がママになれたのはあなたのお陰。 ママになってからの初めては、あなたと経験して泣いたり笑ったり毎日忙しかった。とっても幸せ。 今は、成長して大人になって行く姿に頼もしく誇らしい!と思う。 あの止まりかけた心臓の音は今でも忘れないしそれを繋いでくれてありがとう。 これから自分らしく人生を謳歌してください。いつでも味方だし、大好きだよ。   神奈川県 あっちゃんさん 題名:最愛の長男へ。ママが伝えたいこと。 子どもへ伝えたい言葉:自分は強くて優しい母親になれると そう思っていたし、自信があった。 なにより母親になることが、 夢であり私の目標であった。 実際に経験して... 思った以上に辛くて、涙も出て、 悔しくて。 でもそれだけじゃなく、 知る事、学ぶ事が沢山だった。 そんな経験をさせてくれた 私の愛する長男に私の想いを届けます。

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ふみかママさん「長いようで短かった出産までの道のり」

ふみかママさん「長いようで短かった出産までの道の...

『辛いこと、悲しいこと、何か困ったことがあったら1人で抱え込まずお母さんや周囲に頼って生きて良いんだよ』 高校生の頃から生理不順や月経困難症に悩まされていたが、30代に入ってから運良く妊娠することが出来た。 幸せな妊婦生活が始まると思ったのも束の間、私はつわりで寝込んでしまった。 吐きづわりとよだれづわりが2ヵ月続き、 体重は7キログラム痩せた。 結婚してから地元を離れたので周囲に頼れる人がおらず、実家を頼りたかったが遠方なのと、コロナ禍で制限が厳しい時期だったので難しかった。 生きることで精一杯で掃除や洗濯、食事もほとんど準備出来なかったのだが、主人は嫌な顔一つせず仕事と家事を両立してくれた。 それどころかいつも笑顔で、他に何か出来ることがあったら教えて欲しいと言ってくれた。 つわり期間が終わって一緒に美味しい食事を味わえた時、何よりの幸せを感じた。 安定期に入ると、適度な運動も兼ねて近場を散歩したり、ドライブに連れて行ってもらい充実した妊婦生活を送れた。 妊娠後期は激しい腰痛や夜間頻尿で眠れない事があったが、娘と過ごす生活を考えながら小さな子供服や、産後に必要なものを揃えていくのが楽しかった。 主人は出勤前と就寝前、それと私が胎動を感じると必ずお腹の中の娘に話しかけてくれたのだが、その時間がとても愛おしかった。 娘の名前はぎりぎりまで決まらなかったのだか、主人と一緒に毎晩じっくり話し合いが出来たのも貴重な時間だった。 私は計画無痛分娩で出産予定だったのだが、予定日が近づくに連れて不安が大きくなっていった。 そんな私を励ます為に、父がわざわざ遠方からバイクで7時間かけて会いに来てくれた。 お腹の大きい私の写真を撮ってくれて少し雑談するとすぐに帰ってしまったのだが、父らしいなと思いながらもとても嬉しかった。 母も、産後の私をサポートする為にわざわざ仕事を退職して1ヵ月程こちらに来てくれることになり、申し訳なかったがとても心強かった。 出産予定日前日から処置の為、入院した。 翌日、陣痛促進剤を投与してもらうも娘はまだ私のお腹から出たくないらしく子宮口が思うように開かず、夕方頃に断念した。 翌日にもしも産まれなかったら一度退院してもらって、自然に陣痛を待った方がいいかもしれないと言われ、私は混乱した。 赤ちゃんはすぐ産まれてくれるものだと思っていたのと、無理に促進剤を使って赤ちゃんに辛い思いをさせてしまったのではないかと 後悔した。 部屋に戻ると涙が止まらなくなって、巡回にきた助産師さんが話しを聞いてくれてやっと落ち着くことができた。 翌日、分娩室に入ると助産師さんが少しでもくつろげるようにと、足湯を準備してくれた。 その時、何かが破裂したような音がして下の方が急に温かくなった。 その旨を助産師さんに伝えると、破水したので今日中に産もうね、きっとお母さんの気持ちを察して赤ちゃん出てきてくれようとしてるんだよ、と笑顔をむけてくれた。 子宮口が5センチメートルになった時、陣痛が激しくなり初めて体験する痛みを感じた。そのタイミングで麻酔を使用してもらい、痛みも和らぎ子宮口全開まで体力温存することができた。 いきむのが難しく最後は嘔吐して力尽きそうになってしまったのだが、助産師さんや先生の支援のおかげで無事に娘が誕生した。 産まれたばかりの娘を抱っこさせてもらうと小さくてとても温かかった。 そんな娘にはまずは元気に生まれてくれてありがとうと伝えたい。 そして、人は誰かに助けてもらわないと生きていけないものだから、1人では乗り越えられないと思ったら周囲の人を頼ってもらいたい。 そして、娘にも困っている人がいたら手を差し伸べられるような優しい人になってほしい。   神奈川県 ふみかママさん 題名:長いようで短かった出産までの道のり 子どもへ伝えたい言葉:「辛いこと、悲しいこと、何か困ったことがあったら1人で抱え込まずお母さんや周囲に頼って生きて良いんだよ」

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田川菜里美さん「ハイヒールとスニーカー」

田川菜里美さん「ハイヒールとスニーカー」

『この先ママやパパを鬱陶しく思う時が来ても、抱っこも手を繋ぐ事すらなくなっても、今この時と同じ気持ちで、一生愛しているよ。』   ハイヒールが好きだった。 ゆっくりと進む人たちをお気に入りの服を着て、スイスイと追い抜いて行く。 仕事の新しいプロジェクトや出張、やりがいを感じていた毎日。「妊娠していますね。」と言われたあの日から、私の生活は全く別のものになった。 1人だけど1人じゃない、今までの当たり前は当たり前では無くなった。通勤の満員電車は気分が悪くなり、立ち眩みで座り込む。朝にかろうじて食べた苺も直後に吐いた。 仕事中もお腹が張って残業も難しい、出張にも行けない。職場の仲間に申し訳なくて落ち込む。 そんな時を見計らったようにアナタは私のお腹を「ボン」と蹴飛ばして、励まして喝を入れてくれた。産休に入ったらゆったり過ごそうと決めていたのだけれど、携帯で色んな情報を何度も何度も検索し、不安になって泣く夜が良くあった。 アナタが「ボン」と蹴飛ばしてくれない時には心配で堪らなくなり何度もお腹をさすった。 お酒も飲めないしレアステーキもお寿司も食べられない。変わらないパパが羨ましくなる日もあったけれど、ママと一つのアナタがいつもそばにいた。 2019年6月13日、ママとアナタは2人になって、アナタはあーちゃんになった。 初めて抱っこしたあーちゃんは赤くてしわくちゃで思い切り泣いていて、暖かい気持ちが込み上げて、何があっても守りたいと思った。 そしてあーちゃんが1歳7ヶ月のとき、また宝物がお腹の中にやって来た。幸せな気持ちとは反対に世界中で未知のコロナウイルスが拡大していた。毎日悲しく辛いニュースが流れていた。 不安で暗い気持ちに襲われそうな時、あーちゃんの笑顔に救われた。公園や地域の遊び場で出会う妊婦さん、子育て仲間、職員の方達に励まされた。 だからお腹のアナタが安心して産まれて来られるように、なるべく毎日笑顔で過ごそうと決めていたんだよ。 2021年8月27日、分娩台でアナタはなかなか出てこなくて「ママのお腹の居心地がいいのね。」なんて最初は助産師さんと冗談を言い合ってたんだけれど、どんどん時間が経ち痛みも強くなり、それでも産まれず、あーちゃんの分娩時間はゆうに超えて、呼吸も苦しい、コロナ禍で必須のマスクも苦しい、涙も出て、途中付けられた酸素マスクも吐き気に襲われて取ってしまう。 「小児科の先生呼んできて!」と大きめの声。 バタバタと聞こえる数人の足音。 いきむ、痛い、産まれない。 先生と助産師さん達が話す声、私を励ます声、しばらく経って「赤ちゃんも苦しそうなので吸引で出します。」と先生の声。 アナタが苦しそうと聞いてママは息が止まりそうだった。 頷くと強い痛みと引っ張り出される感覚、耐える、耐える。 すると「頭見えてるよ!いきんで!」の声。無事を祈りながら思い切りいきんだ。 直ぐに聞こえてきた元気な泣き声に安堵と嬉しさで涙が止まらなかった。 アナタとママは2人になって、アナタはさーちゃんになった。 あーちゃん、さーちゃんのお陰でママはたくさんの人に支えられている事を知れたよ。 家族はもちろん、職場、病院の先生達、地域の子育てサロン、区のマタニティセミナー、公園や電車の中、数えきれない程たくさんの人と関わって助けてもらって来たよ。 だから次はママがお返しをしたいんだ。同じママやパパ達と助け合って一緒に楽しく子育てをしていきたい、応援したい。 まだママも初心者ママだけど、30年続く子育てサークルの代表として一歩踏み出したよ。 区のプレママ達の前や子育てサロンで先輩ママとしてお話しして、日々沢山の仲間に出会えているよ。 ヒールも大好きだったけど、今は2人と一緒にゆっくり歩いてどんぐりを見つけて、追いかけっこ出来るスニーカーがママの大好きな相棒。 私達をママとパパにしてくれて、こんな温かい愛おしい気持ちを教えてくれてありがとう。2人を産めたことがママの一生で一番の幸せだよ。   神奈川県 田川菜里美さん 題名:ハイヒールとスニーカー 子どもへ伝えたい言葉:「この先ママやパパを鬱陶しく思う時が来ても、抱っこも手を繋ぐ事すらなくなっても、今この時と同じ気持ちで、一生愛しているよ。」

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あやななさん「コロナ禍での第2子出産」

あやななさん「コロナ禍での第2子出産」

『ママとパパに色んなことを教えてくれてありがとう。産まれてきてくれて本当に嬉しいよ。これからも沢山思い出を作ろうね。』 私が第二子を出産したのは、2021年9月のことです。 予定日より1か月以上早い、35週での出産でした。その日は朝からお腹に痛みを感じていました。夕方になり痛みの感覚が狭まってきて不安になり、産院に連絡するとすぐに来るように言われました。ちょうど主人が休みで家にいたので、4歳の息子と一緒に車で産院まで連れて行ってもらいました。   医師の診察の結果は「切迫早産」でした。 このままでは産まれてしまう状態であり、その場で入院するように告げられました。その時の息子は状況がまだよくわかっていないようでポカンとした様子でした。コロナ禍ということもあり、PCR検査で陰性を確認後に入院しました。目標は36週まで赤ちゃんを少しでも長くお腹で育てることで、24時間点滴に繋がれた生活が始まりました。突然家族と離れ離れになって心細く、ビデオ通話などで毎日会話は交わしていましたが、息子の様子も気になっていました。   それから2日間入院しましたが、破水をしてしまい急遽救急車でNICUのある病院に転院することになりました。その時は、全く知らない病院での出産になると伝えられ、当然のように検診で通っていた病院で出産するものだと思っていた私はショックを受けました。それと同時に、36週前の出産となると赤ちゃんには様々なリスクがあるので、不安を感じていました。「あともう少しだったのにごめんね。」という気持ちでいっぱいでした。   転院してから出産まではあっという間でした。 点滴を抜いた後、すぐに陣痛が強まってきて、マスクをしながら約6時間で第二子となる女の子を出産しました。出産後は娘の体重が小さめで呼吸が少し苦しい状況だったので、NICUの先生方がすぐに娘の処置をしてくださり、しばらく保育器に入ることになりました。入院生活中は、NICUにいる娘の為に3時間おきに母乳を搾乳しました。はじめは母乳がなかなか出なかったので、わずかにでた母乳を綿棒に吸わせたものを毎回NICUの面会時に持参していました。   私が退院して自宅に帰ってからは、毎日搾乳をして病院に冷凍母乳を届ける日々が始まりました。産後すぐに家から離れた病院に通うことは、とても大変でした。そして、私が退院した日から2週間遅れて、娘は無事に退院することができたのです。   それからは、また定期的に娘を通院させなければならなくなった為、私は車の運転の練習を始めました。私は運転がとても苦手で長らくペーパードライバーだったのですが、娘のためにまた運転にチャレンジしようと決意しました。家族の協力のもとでしばらく練習を重ねた結果、無事に一人でも乗れるようになりました。   今回の出産は、コロナ禍で切迫早産になり低出生体重で産まれたことなどもあり、二人目でありながらも初めてのことだらけで、不安が多かったです。 しかし、娘のおかげでこの1年間は初めての経験を沢山乗り越え、自分のずっと苦手だったことにも挑戦して克服することができました。 今は娘がちょうど1歳の誕生日を迎えて、健康にも問題なくすくすくと成長しているのがとても嬉しいです。 お兄ちゃんは、私が入院中はお家でパパと2人でとても頑張って待っていてくれました。この1年間は沢山我慢をさせてしまったと思います。 どうしても妹のお世話にかかりきりになってしまうことが多く、構ってあげられない時があり寂しい思いをさせてしまうことも多かったです。しかし、息子は文句も言わずにおむつを持ってきてくれたりするなど沢山お手伝いをしてくれました。 「本当にありがとう。」と心から思います。 2人育児はまだまだ慣れませんが、これからも大切なかけがえのない存在の2人に愛情を注いでいきたいと思います。 今は喧嘩してしまうことが多い兄妹だけれど、これから2人が成長する中で、だんだん仲良くなっていく姿が見られたら嬉しいです。   神奈川県 あやななさん 題名:コロナ禍での第2子出産 子どもへ伝えたい言葉:ママとパパに色んなことを教えてくれてありがとう。産まれてきてくれて本当に嬉しいよ。これからも沢山思い出を作ろうね。

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佐藤有紀さん「背中を押して押されて。一緒にがんばった先に…。」

佐藤有紀さん「背中を押して押されて。一緒にがんば...

『楽しい!大好き!に夢中になれるように励ますよ。次の一歩をずんずん進んでね。目まぐるしい 毎日をありがとう。 』 「ぼくがいるから ママしごとできなくてごめんね」なんて言わなくていいよ。 実は違うかもしれないよ。 私が行きたい場所とあなたが行きたい場所を一緒に探してるんだと思うんだ。 出産の真っ最中「赤ちゃんも痛い思いしてがんばってるよ!」と声 をかけられた。 「えっ?私が痛いだけじゃなくて赤ちゃんも痛いの?!この痛みを赤ちゃんが?どれだけの思いで出てこようと思ってるの?!」「痛いなら諦めるんじゃないの?赤ちゃんって泣くだけじゃないの?」 「そうか・・。じゃあ一緒にがんばろう!」と、私はいきみながら赤ちゃんにがんばれがんばれと思ってた。 私も痛いけど、応援してるほうが気が紛れた。 育休終了を待たず復職するころ、そろそろおっぱい卒業してほしいなと思っていたとき。 飲む量が増えたのか、出る量が減ったのかおっぱいが足りなくなった。 どんなに吸っても思うように飲めず、泣くこども。 出ないおっぱいの乳首の痛さに、涙するおとな。 お互い泣いたけど、おかげですんなりミルクと離乳食に移行できたね。 理由もなくひたすら「だっこ!だっこー!!」とぎゃんぎゃん泣く2歳のあなた…。 抱っこし続ける苦痛と、ただの抱っこですら交代がないことにママも声を出して泣いたとき、あなたは一瞬泣き止んでママと顔を見合わせたよね。 お互い頑張ってるという思いを共有して落ち着いたね。 小学生になった今でも、産まれた時からずっと『応援して応援されて勇気をもつ』という関係だね。 「学校に行きたくない!」と言い続けて「ママといっしょなら学校行ける…」と母子登校することになって、フルタイム勤務のママは当然仕事に行けなくなった。 ママは想定外だったけど、考えてみれば「会社にずっといたかったのかな?お給料のために割り切って仕事してただけ?」まるで会社に行きたくないママの気持ちを汲んでくれたかのようだった。 結婚することも子供を持つことも興味がなかった私だけど、ある時自分だけの時間を持て余しててつまんないなと思ったんだよね。 子供がいたら持て余すなんてことないんだろうなと思ったら、赤ちゃんがやってきた。 そうか、私には子供を育てるというミッションが課せられてるんだな、と思った。 すべての人にそのチャンスが巡ってくるわけじゃないことがわかっていたから。 高齢だから「出生前診断」を勧める人もいたけど、なんの意味があるのかわからなくてやらなかった。産まない選択肢がないんだから必要ないでしょ? だから私はあなたからチャンスをもらった!と思っているの。 今はひたすらあなたに寄り添っているけど、心の片隅で私は仕事して稼いで社会に貢献している実感が欲しい!と願ってるし、どうやったらできるのかずっと考えてる。 そして同時にあなたの将来も考えてる。 私も自由に仕事ができて、あなたも羽を伸ばせる本来の居場所があるよね?と思ってる。 だから、もしいま「本来居るべき場所」ではないなら、つらいよね。 ぼくの居場所はここじゃない!ママの居場所はそこじゃない!って。 こんな風にお互いを思って応援したり応援されたりすることで、一歩進むことができてるよね。いつも一人でがんばってるわけじゃなかったね。 ママ大好きと言ってくれてうれしいよ。 ママも大好きだよ。この一言、勇気が出るでしょ。 つらいことがあったら、そうやって一緒に成長してきたこと思い出してね。 どんなあなたでもキライになんてならないから心配しないで。 ママの存在があなたの背中を押しますように! 私の背中をあなたが押してくれたように…。   神奈川県 佐藤有紀さん 題名:背中を押して押されて。一緒にがんばった先に…。 子どもへ伝えたい言葉:「楽しい!大好き!に夢中になれるように励ますよ。次の一歩をずんずん進んでね。目まぐるしい 毎日をありがとう。 」

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yukaさん「家族の祈りの中で産まれてきてくれたあなたへ」

yukaさん「家族の祈りの中で産まれてきてくれた...

『みんなで待っていたよ。お母さんにしてくれてありがとう』 あなたは家族の祈りの中で産まれて来ました。あなたの誕生をみんなが待っていました。おじいちゃんは孫の誕生で初めて嬉し涙を流しました。 そんなあなたがお腹の中にいた時のこと、誕生の瞬間。 私は全く覚えていません。 産まれたばかりのあなたを育ててくれたのはお父さんとおばあちゃんです。 お父さんが育休を取ってくれて、おばあちゃんが香川から横浜に来てくれて、大切に育ててくれました。 可愛いあなたの最初の3ヶ月、私はそばにいませんでした。 なんてひどい母親だ、と怒るでしょうか? 優しくて、賢くて、ちょっぴり面倒くさがりなあなたなら「大丈夫だよ、怒らないよ。てか全部分かってたし!」って言ってくれるのかな。 あなたにはお姉ちゃんがいます。 私のお腹の中で感染が起きてしまい、妊娠を続けることができませんでした。 妊娠18週でお姉ちゃんはお空に行ってしまいました。 ちゃんと産んであげられなかったことが悲しくて自分を責めて私は心の病気になってしまいました。 家事も仕事もできなくなり、家族に支えられて何とか生きていました。 少し元気になった頃あなたがお腹に来てくれました。 お姉ちゃんの妊娠が分かったのと同じ月私の実家から徒歩15分の新しい家に引っ越した日でした。 頼りないお母さんだからおじいちゃんおばあちゃんの近くに来た時にしよう。お姉ちゃんと同じタイミングでちょうどいい、と考えたんだね。 本当に賢いね。 案の定、私はつわりで動けなくなってまたお姉ちゃんのようになってしまったらと不安で妊娠6ヶ月の時に精神科に入院しました。 私はぼーっとしてしまっていて「妊娠している気がしない」って言っていたみたい。母子手帳も途中から真っ白。 あなたは逆子でほとんど動かなかったそうです。 そのまま帝王切開になりました。 元気がないお母さんだからエネルギーを消費しないようじっとしていよう。 出産に耐えられそうもないから帝王切開にしよう。 そう考えたんだね、優しいね。 動くのしんどいし産道通るのも大変だしって面倒くさがりなだけだったかも? そんな私の妊娠出産だから家族はとても大変で心配で。 だからこそ、あなたの無事の誕生を祈り待っていました。 待ちに待った誕生の瞬間、産声、覚えていられなかったこと本当に悲しくて悔しいです。 でも帝王切開だったおかげで私のお腹にはあなたが確かに産まれてきた証、傷が残っています。 これもあなたの優しさですね。 私は出産後も3ヶ月間精神科の入院が続きました。 可愛い新生児のあなたと離れ離れでした。 おっぱいもあげられませんでした。 お父さんとおばあちゃんが頑張ってくれました。 よく寝てよく飲んで、手のかからない赤ちゃんだったそうです。 優しくて家族思いのあなただもんね。 私はその間、病気の治療として頭に電気を流す手術を16回受けました。 おかげでなんとか元気になったけれど副作用で過去数年の記憶がなくなってしまいました。 お姉ちゃんとのお別れの記憶、そして大切なあなたの妊娠出産の記憶がすっかり失われてしまったのです。 それが分かった時は信じられなかったしショックでしたなんてひどい母親なんだろうと苦しかったです。 でも家族は言ってくれました「家族みんなが覚えているから大丈夫だよ」 そしてお父さんは言ってくれました。「これから思い出を作ればいいよ」 お父さんとおばあちゃんに教えてもらいながら少しずつあなたの子育てを覚えていきました。 母親として情けなかったけれど家族の支えと、何よりあなたのおかげで遅ればせながら「お母さん」になることができました。 辛抱強く待ってくれていたんだね、可愛い笑顔で励ましてくれたんだね。 それから3年。 3歳になったあなた。 祈りの中で無事に産まれて来てくれたあなたの成長を家族はとても嬉しく幸せな気持ちで見守っています。 優しくて、賢くて、ちょっぴり面倒くさがりなあなたの成長をみんなでこれからも楽しみにしています。 お空のお姉ちゃんも一緒にね。 産まれて来てくれてありがとう。 お母さんにしてくれてありがとう。 2022年9月 大切な息子へ、お母さんより   神奈川県 yukaさん 題名:家族の祈りの中で産まれてきてくれたあなたへ 子どもへ伝えたい言葉:「みんなで待っていたよ。お母さんにしてくれてありがとう」

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カープママさん「私の大切な宝物」

カープママさん「私の大切な宝物」

『いつも「ママ大好き!」と言ってくれてありがとう。ママもあなた達のことがとっても大好きだよ!これからもよろしくね!』 私には2人の可愛い子どもがいます。 上の子はこの夏3歳になった元気いっぱい、お調子者で少し泣き虫な男の子。下の子はそんなお兄ちゃんに日々可愛がられながら、よく食べ、よく寝て、よく笑う10か月のムチムチの女の子です。 乳幼児が2人いると毎日がもう大変です。お兄ちゃんがママの真似をして妹を抱っこしようとするも、支えきれず転倒し2人してギャン泣き。お兄ちゃんの絵本を妹が破り怒ったお兄ちゃんが妹を小突いて2人してギャン泣き。妹のおむつを替えている最中にお兄ちゃんも催し、急いでトイレに連れて行っている間におしり丸出しのまま妹がハイハイで部屋を脱走・・・。 毎日慌ただしく過ごしているとつい忘れてしまいますが、息子の出産は予想外の出来事の連続でした。 息子の妊娠中、私は働きながら初めてのマタニティライフを楽しんでいました。 徐々に大きくなるお腹をさすりながら数ヶ月先の出産を楽しみにしていました。そんな中妊婦健診がありました。 その日は午前中に休みをもらい病院へ行き、午後出社する予定でした。いつも通り尿検査等をしましたが、血圧が150を超えていました。再度計測しましたがやはり高いまま。少し不安を感じながらも体調はいつもと変わらず、先生の診察を待っていました。暫くして診察室に呼ばれると、先生から深刻な顔で「血圧も高く、尿に蛋白が出ています。このまま入院してください。状況によってはすぐに帝王切開になる場合があります。」と言われ呆然としました。 出産?まだ7ヶ月になったばかりなのに?産休前でやり残した仕事があったので入院は明日からではダメかと聞いてみましたが、「ダメです。あなたは妊娠高血圧症候群で、絶対安静が必要です。最悪の場合命に関わります。」と言われ、事の重大さに驚きました。 そのまま車椅子で運ばれ即入院。あまりに急な展開に中々現状を受け止めることができませんでした。お腹の赤ちゃんの大きさはまだ1000gも無かったのです。 その後薬や点滴を投与し、シャワーの時間以外はベッドの上で安静にする生活を送ったお陰で血圧の上昇も抑制され、今すぐ出産が必要な状況は乗り越えることができました。当時はコロナ禍前だった為、遠方の母が見舞いに来てくれたり仕事帰りに夫が顔を出してくれたりして、不安はあったものの比較的心穏やかに過ごせました。 しかし、入院生活が1ヶ月を過ぎた頃から薬が効かなくなり、血圧も160を超える日が増えてきました。 心の準備はしていたものの、先生から手術をすると言われた時は生産期までお腹の中で育てることができず、申し訳なくて涙が出ました。 手術は無事終わり、息子は元気な産声をあげ生まれました。妊娠31週2日、体重1120gのとても小さな赤ちゃんでした。 すぐにNICUに運ばれ私が先に退院した後も息子は入院が必要な為、毎日母乳を届けに病院に通いました。入院中予断を許さない状況になったことがありましたが、生後1ヶ月を過ぎる頃には体からチューブが外れ、生後2か月頃退院し待ちに待った家族3人での生活をスタートすることができました。 嬉しいのは勿論ですが、これからは小さな息子を私達で育てなくてはいけないという不安が大きかったです。 しかし、そんな心配をよそに息子はすくすくと大きくなり、妹が生まれてからはお兄ちゃんとして頑張ってくれています。 現在、身長の成長は年相応で問題無いと先生に言われており喜ばしく思う反面、自我も芽生え親の思い通りに動いてくれず怒ることが増えています。 生まれた頃はあんなに愛おしく、可愛くてたまらない存在だったはずなのに、怒りの感情のまま叱ってしまうことも多々あります。 今回の作文をきっかけに、子ども達が大好きで宝物のような存在であることを再確認することができました。いつも怒ってばかりでごめんね、これからたくさん楽しいことを経験していこうねと伝えたいです。   神奈川県 カープママさん 題名:私の大切な宝物 子どもへ伝えたい言葉:「いつも「ママ大好き!」と言ってくれてありがとう。ママもあなた達のことがとっても大好きだよ!これからもよろしくね!」

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横山安紀子さん「蓮、大好きだよ!」

横山安紀子さん「蓮、大好きだよ!」

『あなたの成長を一緒に見守り、喜んでくれる人たち』 2020年9月9日午後10時52分、蓮は元気な産声をあげながら産まれてきてくれました。 お父さんとお母さんは結婚してから、なかなか赤ちゃんを授かれず、一度、妊娠するも初期流産をしてしまいました。 でも、お母さんは諦めなかった。いつかまた命を授かり、今度は元気に産んであげられるように…と食事の工夫をし、身体のケアをしたり、時には気分転換にお父さんと旅行に出かけたりしました。 その時からたくさんの方々がお母さんにアドバイスをしてくれて、元気な赤ちゃんを授かるように応援してくれたんだよ。 鍼灸院の先生方、薬局の薬剤師さん、料理教室の先生…皆さんに励まされて、お母さんは2人目の命を授かる事ができました。 それが蓮です。お母さんもお父さんもうれしくて、うれしくて…そして、「この子はきっと元気に産まれてくる!」って信じて、毎日お腹に話かけていました。 ちょうどその頃、コロナウイルスが流行し出して、心配や不安もあったけど、蓮は順調にお腹の中で育ってくれて、大きなトラブルもなく、毎回の健診でエコーを見るのがとても楽しみでした。 そして、待ちに待った出産の時… なかなかお産が進まなくて、お母さんも疲れてきた時、お父さんが病院に駆けつけてくれたんだよ。怖がりのお父さんは最初は「分娩室に入らん」って言ってたんだけど、お母さんがあまりにも苦しんでいるのを見て、「僕も一緒に分娩室に行くわ!」って一緒に頑張ってくれました。 お母さんはお父さんが倒れてしまわないか?と、とても心配でしたが、「がんばれー!がんばれー!」って大きな声でたくさん応援してくれました。そして、元気な産声をあげて蓮が産まれてきてくれました。辛かった陣痛も一瞬で忘れてしまったほど、本当にかわいくて、すごくしあわせな瞬間でした。そうして、蓮との新しい日々が始まりました。 蓮は抱っこをしていないと泣いてしまう、そして、抱っこをしないと寝ない赤ちゃんでした。だから、お母さんはずーっと蓮を抱っこして過ごしていました。はじめての育児でわからない事だらけ。睡眠不足もあって、最初の頃は育児が本当に辛かったです。 蓮が生後3ヶ月の時から、お母さんは少しずつ仕事に復帰していきました。 生後6ヶ月になると、お母さんも本格的に仕事に復帰。2時間ほど託児所に預かってもらって、仕事をしました。初めて預かってもらった日をお母さんは忘れません。 大泣きする蓮を置いて仕事に行く事が本当に辛かった。託児所の先生が「お母さん、大丈夫ですよ。みんな通る道ですから。すぐに慣れますよ!」って言って下さった言葉に何度も救われました。 今では保育園の一時預かりも利用して、楽しそうに過ごしている様子をみると、たくましくなったなーと思うと同時に蓮なりに一生懸命がんばってお母さんの帰りを待っていてくれてるんだな…と、お母さんも頑張らないと!と勇気をもらっています。 明日は蓮の2歳の誕生日!あなたの誕生日にはたくさんの「おめでとう」の言葉をいただくのです。 妊娠前からたくさんの方に支えて頂き、そして、ちょっと早めに託児所や保育園で預かって頂いた分、先生たちも蓮の成長がうれしいのです。みんな蓮が大好きなんだよー。 もし、蓮が大きくなってどうしようもなく辛い時、思い出して下さい。 蓮の成長を一緒に見守り、喜んでくれる人がたくさんいる事を。 あなたはたくさんの愛に包まれて大きく成長した事を。だから、大丈夫だよ!蓮、大好きだよ!お父さんとお母さんのところに生まれてきてくれてありがとう!   和歌山県 横山安紀子さん 題名:蓮、大好きだよ! 子どもへ伝えたい言葉:「あなたの成長を一緒に見守り、喜んでくれる人たち」

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中野玲奈さん「出産から見える子どもたちの思い」

中野玲奈さん「出産から見える子どもたちの思い」

『母は命を与えるのでは無い、むしろ与えられるもの』 子どもが産まれる。 それは命を与えたと言うより私自信が何かを与えられた感覚が強く、人生で忘れられない瞬間です。 1人目ときは産まれてくるまであまり母になる自覚はなく、ただお腹に赤ちゃんかいるけど今を楽しもうと軽い気持ちで日々を過ごしました。 妊娠期間も出産の前々日に山登りをしたりするぐらい常に体調も良好。 でも出産はいきなり、深夜の破水から始まりました。 トイレに座ると小さくパンと音がしてチョロチョロとピンク色の水が。 あれこれは?と思ってると段々と痛みがではじめ陣痛とわかりました。すぐに病院に電話し直行。30分の道のりがすごく長く感じられました。 病院について陣痛の痛みにずっと耐える横で旦那は眠り、1人で戦い続けました。 5時間ほど耐えた所で、陣痛の痛みが強くなり分娩室に。そこからは30分で産まれました。 2684g 少し小さめの男の子です。 生まれた瞬間、すぐに胸の上に置かれ弱々しい体なのに夢中でおっぱいに吸い付いて来る姿に涙が溢れたのを覚えてます。 それと同時に今まで何のために生きてるかわからなかった人生に1本の道が示されました。 この子のために生きていく。 そう、子から私の命が与えられたのです。 与えたようで与えられる。 多分これが死ぬまで続いていくと悟りました。 そして子供自体が使命を持って産まれてくることを実感しました。 2人目は実は夫婦の関係が上手くいかず、2人目を授かることで少しでも旦那が子どもに目を向けて欲しいという希望のもと、子を授かりました。 しかし旦那は私が妊娠しても生活が変わらず、あまりにも辛すぎて妊娠中に上の子を連れて実家近くに別居を決意。 お腹に赤ちゃんがいる中、一人で4ヶ月程子供を育てていました。 出産まであと3ヶ月というところで、陣痛が起りました。 初めはお腹が痛いだけと思って様子を見たら、次第に五分感覚で痛みがきてこれはおかしいと思い病院に。 即、切迫早産で入院が決まりました。 何も準備する間もなく息子と離れ、出産まで長い入院生活の始まりです。 コロナ禍だったので誰とも面会も出来ません。 息子を旦那に預けるのは本当に恐怖で、何度も後悔しました。 息子にも会えないことはすごく辛く悲しかったですが、すぐに預ける保育園が見つかったり、義母が仕事を休みをとってくれたり、母には子どもからお母さんの休憩時間与えられたんだよ、甘えればいいと何度も言われ救われました。 本当に私の周りにはこんなに心強い味方がいることを初めて知りました。 旦那には常に振り回されましたが、たくさんの人に支えられ無事2ヶ月半の入院期間を乗り越えました。 出産は37wに帝王切開。 逆子が治りませんでした。 手術の時間は13時に始まり42分には出産。 14時には病室に向かってました。一瞬でした。 お腹の子は小さいと言われてたのに生まれてみたら2946gの男の子。 大きくて逞しくて驚きました。 ちなみに術後すぐは陣痛の痛みに比べたら帝王切開の方が楽ちんって思ってましたが、麻酔が切れたあとは2日程信じられないほどの激痛との戦いなのでどちらも辛いです。(笑) 2人の出産を終え、気づいたことは子どもは母のお腹に来る時に何か使命を持っていること。 例えば離れそうな家族をつなぎ止めたり、悲しい過去を変えたいとかだったり… うちの息子たちの思いは、母の居場所と、家族の在り方です。 生まれてきた瞬間にそのメッセージをプレゼントしてくれたこと、私を変えるきっかけを作ってくれたことに、いくら感謝しても足りないぐらいです。 だからこそしっかりその思いを抱きしめて私はこの後子供たちが見る夢を応援するだけ。 そして母は強くはない、弱くて脆い。 でも強く見えるのは守りたい君たちがいるからなんだよと伝えたい。   山梨県 中野玲奈さん 題名:出産から見える子どもたちの思い 子どもへ伝えたい言葉:「母は命を与えるのでは無い、むしろ与えられるもの」

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にゃみさん「一緒に大きくなろうね」

にゃみさん「一緒に大きくなろうね」

『あなたがお腹に来てくれてから、いつも頑張ってままを助けてくれたね。ままも一緒に成長したいから、一緒に大きくなる!』  入社して1年が経とうとしていたこの日は、私の人生が大きく変わる運命の日になった。  「何か気持ち悪い...」よく風邪をひいていた私は、絶対胃腸風邪だと思い会社を早退した。 車で20分走り帰宅すると、昼からの診療まで時間があったからなのか、ふと妊娠検査薬もやってみよう!と薬局に買いに行き、すぐに検査してみることに。 この時何の迷いも焦りもなく、軽い気持ちで検査しようと思えたのは未だに謎...。2つ線が出たら妊娠かぁ。なんて思ってる間に一瞬で2つの線がくっきり!!「え!うそ!」やばい、本当に妊娠してた。この吐き気はつわり?検査薬は99%当たると書いてあるが、すぐに事実を確かめるため産婦人科へ行くことに。 初めて行く病院に不安で、親友に付き添ってもらった。ドキドキしながらも、不思議とどこか強気で、診察室に入り診てもらうと「おめでとうございます。赤ちゃんの心臓元気に動いてるよ」と先生は言った。初めて見た赤ちゃんは2mm。 まるで米粒のように小さく、まだ人の形もしていなかった。「次は彼も連れておいでね」と先生はニコッと微笑んだ。待合室で待つ親友に震える声で「やっぱできてた」と伝え、2人で顔を青ざめたのが初めてあなたを感じた日。 彼にはすぐメールで報告した。本当は、もう少し気持ちの整理をしてから話したかったけど、とにかく吐き気がひどく、実家暮らしの私は隠すことも出来ず、悩む時間もなかった。 正直、産まないという選択もなければ、産むということも考えられなかった。19歳の私は、ちゃんと親になれるのかな...不安で仕方なかった。仕事から帰ってきた母に何度も謝った。 いつも何をしても絶対謝らない私に母は驚き、何があったのがすぐに聞いてくれ、正直に全て話した。緊張で涙が溢れた。母は「え!おめでとう!良かったね!」と喜んでくれて私はびっくり。怒られるとばかり思っていたからとにかく驚いた。父にも殴られる覚悟だったが「すぐに彼を連れておいで」とあまりの優しさ?に戸惑った。彼が来て、車の中で2人で少し話した。 「どうする?」と聞くと 「産んでほしい。結婚しよう」と迷わず言ってくれて、これまたびっくり! 「2人で頑張ろう」と握ってきた手は、少し震えていたが、とても温かく安心した。 それからトントン拍子に結婚、つわりは8ヶ月まで続き、8キロも体重が減り、フラフラだったけど、赤ちゃんは順調。マタニティーブルーで夜になると毎日、出産が不安で涙がとまらなくてね。注射1本でも嫌だ。と泣いていた私。 妊婦検診も採血ばかりで辛かったなぁ。3ヶ月間の2人の新婚生活は、これからの生活について話したり、3人で住むアパートを決めたり、あなたの名前を考えたり。本当に幸せな時間だったな。 予定日を12日過ぎ、強制入院。促進剤で陣痛は起きてきて、いよいよだ!と燃えていたけど、子宮口がなかなか開かず、先生も手伝ってくれたけど破水。 「このまま進まず日付が変わったら、緊急帝王切開に切り替えます」そう言われてからの時間は一瞬で、なんとなくこうなるんじゃないかと思っていた私は、「あぁ、やっぱりか...」と涙。 手術は怖いけど、産まなきゃあなたに会えないし、震える手で同意書にサインをし、歩いて手術室に入った。本当に怖くて震えが止まらなくて、麻酔もうまく入らず何度も失敗。 やっとで手術が始まると、すぐにあなたは生まれました。泣き声が聞こえて「あぁ、産めたんだなぁ。私も赤ちゃんも生きてる。良かった」ってすごく安心した。 あの日から12年。本当に色々あったけど、大変だったからこそ今すごく幸せで、ままになってたくさん強くなれたよ!ありがとね!だいすき。   岐阜県 にゃみさん 題名:一緒に大きくなろうね 子どもへ伝えたい言葉:「あなたがお腹に来てくれてから、いつも頑張ってままを助けてくれたね。ままも一緒に成長したいから、一緒に大きくなる!」

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